十年前の十一月、フミ子は喪服を箪笥にしまった翌朝、まだ暗いうちに家を出た。眠れない夜が四十九日を過ぎても続いていた。
坂の上で道は二つに分かれる。右へ行けば寺の墓地、左へ下りれば浜だ。毎朝、右へ曲がって線香を立てるつもりでいた。それが残された者の務めだと思っていた。
けれど左の坂の下から、軍手をはめた千代さんが手を振った。
「フミちゃん、暇なら拾うの手伝って」
フミ子は少し迷い、左へ下りた。墓へ行くのは月命日だけになった。そのことを、誰にも言っていない。
あれから十年、土曜の朝はいつも浜にいる。
今朝は家を出る前に、テレビが海で溶けるプラスチックの話をしていた。深い海の底でも、数か月で跡形もなくなるのだという。フミ子は湯呑みを持ったまま画面を見ていた。茶が冷めても、飲まなかった。
浜には六人が来ていた。最年長のフミ子が、いちばん重い袋を引きずって先を歩く。右膝が、砂を踏むたびにきしんだ。
「井沢さん、それ私が持ちます」
去年から来るようになった美園が追いついてくる。
「いいの、慣れてるから」
フミ子は歩幅を広げた。記録係の手帳には、十年分の正の字が並んでいる。ペットボトル、漁網の切れ端、ライターの数。数字はいつも少しずつ増えた。減ったことはない。それでも数えつづけた。止まったら、何かに追いつかれる気がした。
岩場の手前で、膝が抜けた。
手をついた拍子に、手帳が潮だまりへ落ちた。拾い上げると、鉛筆の正の字が水の中で薄くにじんでいた。
「大丈夫ですか」
美園が肩を支える。フミ子は手帳を胸に押し当て、自分がどこへ向かって急いでいたのか、思い出そうとした。思い出せなかった。海のためだったのか、一人の朝から逃げるためだったのか。どちらも本当で、どちらも違う気がした。
その夜、フミ子は台所の棚から瓶を二つ下ろした。一つには十年分のガラスのかけらが入っている。緑、茶、ときどき青。もう一つは空だ。
濡れた手帳を一枚ずつはがし、新聞紙に挟んだ。にじんだ数字の上に、乾いた鉛筆で書き足そうとして、やめた。
代わりに、かけらを空の瓶へ少しずつ移した。角の丸いものと、まだ尖ったものを分けていく。尖ったものは、もう何年か海に返したほうがいいのかもしれない。丸いものは、孫の分だ。
移しては戻し、また移す。どちらの瓶にどれだけ入れるのが正しいのか、わからなかった。わからないまま、手は止まらなかった。
次の土曜、フミ子は一時間遅れて浜へ下りた。肩に袋はなく、手に折りたたみの椅子と水筒を提げていた。
美園たちはもう波打ち際に散らばっている。フミ子は堤防の陰に椅子を置き、仲間が持ってくる袋を受け取っては、中身を砂の上に広げた。ガラスはガラスへ、網は網へ。手帳は新しいものにした。最初の頁には、まだ何も書いていない。
「これ、きれい」
美園の娘が、青いかけらを手のひらに載せて見せに来た。
「あげる。ここらでいちばん、海に長くいた子だよ」
少女は大事そうにポケットへしまって、また駆けていった。
水筒の茶を、フミ子は蓋と湯呑みの二つに注いだ。一つは自分に。もう一つは、誰のためか決めないまま、隣の砂の上に置いた。
風が湯気を沖へ運んでいく。溶けて消えるものと、消えずに丸くなるもの。どちらを拾いにここへ来ているのか、フミ子はまだ決めていない。ただ、決めないまま座っていられる朝が来たことだけは、たしかだった。