パートで入った春、奈緒は青果主任の富沢に、もやしの積み方を教わった。
「一番安いもんを、一番きれいに積め。客はそれで店を見る」
袋の口を揃え、冷えたケースの手前に寄せる。朝七時に井出さんのトラックが来たら、荷を受ける前にこちらから頭を下げる。富沢は先代の頃からそうしてきたと言い、奈緒は言われたとおりにした。社員になり、三年前にバイヤーになってからも、その順序は変えなかった。
奈緒にはもう一つ、誰に教わったのでもない信仰があった。母と二人の団地の夕飯は、炒めても、ゆでても、味噌汁に入れても、もやしだった。夜の仕事から戻った母が、明け方の台所に袋を二つ置いている日は、朝から機嫌がよかった。特売だったんさ、と母は言った。その手はいつも、青くさい匂いがした。台所の匂いだと奈緒は思っていた。
安いものが人を生かす。だから安く売るのは悪い仕事ではない。そう思って、今日までやってきた。
◇
井出が一袋三円の値上げを頼みに来たのは先週だった。事務所で帽子を脱いだ頭は、荷受けの朝に見るより白かった。七十を過ぎた背中が、奈緒より低いところまで折れた。
「上に諮ります」と奈緒は言い、諮らなかった。
同じ週、国道沿いに安売りの店が開いた。部長は次のチラシの目玉をもやしにしろと言った。去年の特売で数字を出したとき、朝礼で奈緒の名前を呼んだ部長だった。あのときの、耳の熱さを覚えている。もっと安く入れるという業者の見積もりも届いていた。奈緒はそれを机の引き出しの奥に入れ、夫にも話さなかった。夜中に起き出して電卓を叩き、答えが出ると消した。
今朝、会社の駐車場で開いた記事に、もやし屋が五年で十三社消えたとあった。売れているのに儲からない、と書いてあった。奈緒はエンジンを切らずに、しばらくそこに座っていた。
昼休みに、母から電話が来た。めったにないことだった。
「スマホに出てきたんだけど、もやし屋がずいぶん潰れてるって。井出さんとこは大丈夫かい」
奈緒は箸を止めた。取引先の名前を、母に話したことはなかった。
「なんで井出さんを知ってるの」
少し間があった。
「あんたが小学校の頃、夜、あそこで働いてたんだよ。弁当の工場って言ってたけどさ。二年のとき、もやしっ子って言われて泣いて帰ってきたがね。だから言えなくて」
奈緒は袋のことを聞いた。自分の声ではないようだった。
「あれは、はねものだいね。破けたのを帰りに持たせてくれたんさ。買やしないよ、あんなの」
母は笑った。
「スーパーの安売りのたんびに、社長さんが、ごめんな、今年も上げてやれねえって。時給、八年で二十円だよ。それでも、もやしだけはタダだったから」
奈緒は何か言おうとして、言葉の順序がわからなかった。
「安いもやしに助けられたって、いつか言ってたねえ」母の声は責めていなかった。「まあ、食べたのはあんただもんね」
電話が切れた。
奈緒はバックヤードへ降りた。午後の便のケースが積まれ、冷気が足元を流れている。引き出しの見積もりも、電卓も、チラシの割り付けも、井出の三円も、朝と同じものがすべて手の届くところにあった。ただ、値札のこちら側で袋を二つ提げて笑っていたはずの女が、いなかった。あの人はずっと、向こう側に立っていた。
ケースから一袋抜いて、口を開け、顔を近づけた。
濡れた豆の、青くさい匂いがした。
台所の匂いではなかった。