月夜の短編集

2026.11.03 / 経済

はねもの

教皇・正位置
過去 教皇・正位置
女教皇・逆位置
現在 女教皇・逆位置
魔術師・正位置
未来 魔術師・正位置

パートで入った春、奈緒は青果主任の富沢に、もやしの積み方を教わった。

「一番安いもんを、一番きれいに積め。客はそれで店を見る」

袋の口を揃え、冷えたケースの手前に寄せる。朝七時に井出さんのトラックが来たら、荷を受ける前にこちらから頭を下げる。富沢は先代の頃からそうしてきたと言い、奈緒は言われたとおりにした。社員になり、三年前にバイヤーになってからも、その順序は変えなかった。

奈緒にはもう一つ、誰に教わったのでもない信仰があった。母と二人の団地の夕飯は、炒めても、ゆでても、味噌汁に入れても、もやしだった。夜の仕事から戻った母が、明け方の台所に袋を二つ置いている日は、朝から機嫌がよかった。特売だったんさ、と母は言った。その手はいつも、青くさい匂いがした。台所の匂いだと奈緒は思っていた。

安いものが人を生かす。だから安く売るのは悪い仕事ではない。そう思って、今日までやってきた。

◇

井出が一袋三円の値上げを頼みに来たのは先週だった。事務所で帽子を脱いだ頭は、荷受けの朝に見るより白かった。七十を過ぎた背中が、奈緒より低いところまで折れた。

「上に諮ります」と奈緒は言い、諮らなかった。

同じ週、国道沿いに安売りの店が開いた。部長は次のチラシの目玉をもやしにしろと言った。去年の特売で数字を出したとき、朝礼で奈緒の名前を呼んだ部長だった。あのときの、耳の熱さを覚えている。もっと安く入れるという業者の見積もりも届いていた。奈緒はそれを机の引き出しの奥に入れ、夫にも話さなかった。夜中に起き出して電卓を叩き、答えが出ると消した。

今朝、会社の駐車場で開いた記事に、もやし屋が五年で十三社消えたとあった。売れているのに儲からない、と書いてあった。奈緒はエンジンを切らずに、しばらくそこに座っていた。

昼休みに、母から電話が来た。めったにないことだった。

「スマホに出てきたんだけど、もやし屋がずいぶん潰れてるって。井出さんとこは大丈夫かい」

奈緒は箸を止めた。取引先の名前を、母に話したことはなかった。

「なんで井出さんを知ってるの」

少し間があった。

「あんたが小学校の頃、夜、あそこで働いてたんだよ。弁当の工場って言ってたけどさ。二年のとき、もやしっ子って言われて泣いて帰ってきたがね。だから言えなくて」

奈緒は袋のことを聞いた。自分の声ではないようだった。

「あれは、はねものだいね。破けたのを帰りに持たせてくれたんさ。買やしないよ、あんなの」

母は笑った。

「スーパーの安売りのたんびに、社長さんが、ごめんな、今年も上げてやれねえって。時給、八年で二十円だよ。それでも、もやしだけはタダだったから」

奈緒は何か言おうとして、言葉の順序がわからなかった。

「安いもやしに助けられたって、いつか言ってたねえ」母の声は責めていなかった。「まあ、食べたのはあんただもんね」

電話が切れた。

奈緒はバックヤードへ降りた。午後の便のケースが積まれ、冷気が足元を流れている。引き出しの見積もりも、電卓も、チラシの割り付けも、井出の三円も、朝と同じものがすべて手の届くところにあった。ただ、値札のこちら側で袋を二つ提げて笑っていたはずの女が、いなかった。あの人はずっと、向こう側に立っていた。

ケースから一袋抜いて、口を開け、顔を近づけた。

濡れた豆の、青くさい匂いがした。

台所の匂いではなかった。

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ニュースと選定

題材は「「安いもやし」限界 「もやし製造」5年間で13社が消える 経営は7割が「業績悪化」」。 2026年のもやし製造業者の倒産・休廃業解散は少なくとも3件、10月に事業停止した大手サイキ食品(埼玉)を含め4件。2022〜26年の5年間で計13件に。緑豆の輸入単価は26年1〜8月平均で前年同期比7.2%上昇し、資材・電力・物流・人件費も上昇。業績判明の約20社で約3割が最終赤字、減益含め65%が業績悪化(見出しは7割)。需要は底堅いが価格転嫁できず「売れているのに儲からない」状態で、安定供給への懸念も指摘。 配信元の帝国データバンクは調査の発表元で、本文を確認(11/3 7:02配信)。見出しの「7割」は本文では「65%、3社に2社」で、記事内で表記に差がある。別系統:関西テレビ(10/14)・ダイヤモンド・オンライン(10/24)がサイキ食品の事業停止と、工業組合もやし生産者協会の調べ(生産者2009年235→2026年度初め86)を報道。緑豆単価の7.2%上昇は記事が財務省貿易統計を典拠とするが、統計そのものは未確認。

人物

栗林 奈緒(仮名)、36歳、群馬県の地場スーパー(8店舗)の青果バイヤー。高校教員の夫と小1の息子の三人暮らし。老舗もやし屋から1袋3円の値上げを頼まれる一方、競合開店で特売の目玉を指示され、より安い業者の見積もりも持っている。 名前:栗林 奈緒(仮名)、36歳。 職業:群馬県の地場スーパーチェーン(8店舗)の青果バイヤー。パートから社員登用され、3年前にバイヤーへ。 家庭:高校教員の夫、小学1年の息子と三人暮らし。実家の母は隣市で一人暮らし。 過去:母子家庭で育ち、子どもの頃の夕飯はもやしが多かった。母が特売の袋を二つ買って帰る日は機嫌がよかった。 悩み:先代からの取引先のもやし屋(社長は70代)から1袋3円の値上げを頭を下げて頼まれた。近くにディスカウント店が開き、上司からはもやしを特売の目玉にしろと指示され、より安い業者の見積もりも手元にある。 喜び:朝の市場の匂い、売り場が昼前に空になる光景。息子が野菜の名前を覚えていくこと。 本音:特売で数字を出して初めて会社に褒められたのがうれしかった。あの快感をまた味わいたい自分がいる。

三枚のカード

  • 過去:教皇(正位置)
  • 現在:女教皇(逆位置)
  • 未来:魔術師(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年11月3日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。