受付は朝八時半に始まり、三十分で売り切れる。遥は出勤前の医院の駐車場で、自分の携帯と母から借りた携帯を両手に持ち、二百回近くかけ直して二枚を取った。大人七千五百円。今年から上がったが、構わなかった。
祖母を説き伏せるほうが難しかった。ダムの底に生家のあるミツは、村の話になると茶を淹れに立つ。八十四の今日まで、一度も帰っていない。遥は三週間かけて入れ歯を調整し、歯ぐきの手入れをし、柔らかい肉から順に噛む練習をさせた。詰め込まれた予約をこなし、院長の勧める高い治療の説明をこなしながらやった。健に式場の見学はいつにすると聞かれても、祭りが済んでから、と答えた。自分の中で言い争っているものは全部、その日まで黙らせておいた。
最後に祖母がうなずいたのは、人数を聞いたときだった。
「千五百人?」
「村の人の四倍よ」
「ほんなら、誰も分からんね」
遥はそれを、照れだと思った。
◇
山の広場は炭の煙で白かった。祖母はテントのいちばん奥に座り、帽子を取らなかった。遥が肉を薄く切って網に載せ、焼けたのを皿に置くと、祖母は黙って一切れ口に入れ、長いこと噛んで、飲んだ。それだけで遥は泣きそうになった。
隣の席の老人が、箸を置いて頬を押さえていた。奥が痛いがよ、村には歯医者がめったに来んきねえ。遥はポーチを開けた。ミラーとブラシと小さなライトは、仕事の癖でいつも持ち歩いている。老人を明るいほうへ向かせ、口を開けてもらった。歯ぐきが腫れています、磨き方で楽になるかもしれません、でも一度は先生に。ブラシの角度を見せると、老人は素直に真似をした。周りに人が集まった。実行委員の腕章をつけた年配の女が来て、隔週の歯科の巡回を手伝える人を探している、と言った。
手元のものだけで、場が動いていくのが分かった。ああ、これだ、と遥は思った。
「どういうご縁で、この村へ」と女が聞いた。
祖母の指が、遥の袖を一度引いた。肉の脂がついた指だった。遥はそれを、誇らしさだと取った。
「祖母がこの村の生まれなんです。今は沈んだ所の、楠瀬の家です」
女は笑ったまま、少し黙った。それから帽子の奥をのぞいた。
「鉱山の帳場の楠瀬さん。ミツさんかね。母がよう言いよった、うちの店の」
そこで止めて、女は網の上を見た。
「まあ、今日はお肉」
女は次のテントへ行った。祖母は箸を置き、それきり何も食べなかった。帰りの車でも、何も言わなかった。疲れたのだろう、と遥は思った。
◇
翌週、遥は院長に主任の話を断った。主任には後輩が決まった。巡回の話を受けたことは、決めてから健に言った。おばあちゃんのためでもあるがよ、と言うと、健は少し考えて、おばあちゃんに聞いた、と言った。遥はその声を、手を振って払うように聞き流した。
最初の巡回は公民館だった。老人たちは次々に口を開けた。片づけのとき、あの女が歯ブラシの箱を受け取りながら言った。
「お祖母さんに、あんなことせんでええと伝えて。母はとうに死んじゅうに」
現金書留が届いたのだという。六十八年前の米と味噌の代を、今の値に直したという額が入っていて、手紙はなかった。楠瀬の一家は夜のうちに山を下りた。店の帳面は、店ごと水の下へ行った。村でももう、その話をする者は女のほかにいなかった。
「千五百人もおる日やき、来れたがやろねえ」
女は箱の蓋を閉めた。
帰りに、遥は祖母の家へ寄った。ポーチを開け、手入れの日やろ、と言った。祖母は煮物の鍋を見たまま首を振った。
「歯は、駅前の先生に替えたき」
「なんで。まだ調整の途中やん」
「あんたは上手なき」
祖母は火を止めた。卓の上に、見たことのない薄さになった通帳があった。
「ばあちゃん、ちょっとだけ。口、開けて」
祖母は湯呑みを取った。片手で口元を覆ってひと口すすり、遥のいないほうを向いて飲み込んだ。
ポーチの中で、ミラーが小さく鳴った。