月夜の短編集

2026.11.03 / 地域

開口

戦車・正位置
過去 戦車・正位置
魔術師・正位置
現在 魔術師・正位置
皇帝・逆位置
未来 皇帝・逆位置

受付は朝八時半に始まり、三十分で売り切れる。遥は出勤前の医院の駐車場で、自分の携帯と母から借りた携帯を両手に持ち、二百回近くかけ直して二枚を取った。大人七千五百円。今年から上がったが、構わなかった。

祖母を説き伏せるほうが難しかった。ダムの底に生家のあるミツは、村の話になると茶を淹れに立つ。八十四の今日まで、一度も帰っていない。遥は三週間かけて入れ歯を調整し、歯ぐきの手入れをし、柔らかい肉から順に噛む練習をさせた。詰め込まれた予約をこなし、院長の勧める高い治療の説明をこなしながらやった。健に式場の見学はいつにすると聞かれても、祭りが済んでから、と答えた。自分の中で言い争っているものは全部、その日まで黙らせておいた。

最後に祖母がうなずいたのは、人数を聞いたときだった。

「千五百人?」

「村の人の四倍よ」

「ほんなら、誰も分からんね」

遥はそれを、照れだと思った。

◇

山の広場は炭の煙で白かった。祖母はテントのいちばん奥に座り、帽子を取らなかった。遥が肉を薄く切って網に載せ、焼けたのを皿に置くと、祖母は黙って一切れ口に入れ、長いこと噛んで、飲んだ。それだけで遥は泣きそうになった。

隣の席の老人が、箸を置いて頬を押さえていた。奥が痛いがよ、村には歯医者がめったに来んきねえ。遥はポーチを開けた。ミラーとブラシと小さなライトは、仕事の癖でいつも持ち歩いている。老人を明るいほうへ向かせ、口を開けてもらった。歯ぐきが腫れています、磨き方で楽になるかもしれません、でも一度は先生に。ブラシの角度を見せると、老人は素直に真似をした。周りに人が集まった。実行委員の腕章をつけた年配の女が来て、隔週の歯科の巡回を手伝える人を探している、と言った。

手元のものだけで、場が動いていくのが分かった。ああ、これだ、と遥は思った。

「どういうご縁で、この村へ」と女が聞いた。

祖母の指が、遥の袖を一度引いた。肉の脂がついた指だった。遥はそれを、誇らしさだと取った。

「祖母がこの村の生まれなんです。今は沈んだ所の、楠瀬の家です」

女は笑ったまま、少し黙った。それから帽子の奥をのぞいた。

「鉱山の帳場の楠瀬さん。ミツさんかね。母がよう言いよった、うちの店の」

そこで止めて、女は網の上を見た。

「まあ、今日はお肉」

女は次のテントへ行った。祖母は箸を置き、それきり何も食べなかった。帰りの車でも、何も言わなかった。疲れたのだろう、と遥は思った。

◇

翌週、遥は院長に主任の話を断った。主任には後輩が決まった。巡回の話を受けたことは、決めてから健に言った。おばあちゃんのためでもあるがよ、と言うと、健は少し考えて、おばあちゃんに聞いた、と言った。遥はその声を、手を振って払うように聞き流した。

最初の巡回は公民館だった。老人たちは次々に口を開けた。片づけのとき、あの女が歯ブラシの箱を受け取りながら言った。

「お祖母さんに、あんなことせんでええと伝えて。母はとうに死んじゅうに」

現金書留が届いたのだという。六十八年前の米と味噌の代を、今の値に直したという額が入っていて、手紙はなかった。楠瀬の一家は夜のうちに山を下りた。店の帳面は、店ごと水の下へ行った。村でももう、その話をする者は女のほかにいなかった。

「千五百人もおる日やき、来れたがやろねえ」

女は箱の蓋を閉めた。

帰りに、遥は祖母の家へ寄った。ポーチを開け、手入れの日やろ、と言った。祖母は煮物の鍋を見たまま首を振った。

「歯は、駅前の先生に替えたき」

「なんで。まだ調整の途中やん」

「あんたは上手なき」

祖母は火を止めた。卓の上に、見たことのない薄さになった通帳があった。

「ばあちゃん、ちょっとだけ。口、開けて」

祖母は湯呑みを取った。片手で口元を覆ってひと口すすり、遥のいないほうを向いて飲み込んだ。

ポーチの中で、ミラーが小さく鳴った。

この物語の手前にあった相談を読む
制作過程を読む

ニュースと選定

題材は「高知県大川村で謝肉祭 約1500人が幻の牛「大川黒牛」バーベキューを堪能」。 年間約50頭しか生産されない「大川黒牛」を味わう大川村謝肉祭が3日に開かれ、村人口(10月1日時点335人)の4倍以上の約1500人が訪れた。大人7500円に値上げしたがチケットは今年もすぐ完売。村はかつて鉱山で栄えたが1972年に閉山し、当時の中心部は早明浦ダムの底に沈んだ。謝肉祭は1983年に始まり43回目。 中日新聞Web(2026-11-03 16:21)に同内容の記事で確認。村の公式情報サイト「でぃぐ!大川村」と大川村役場で、第43回の開催日(11月3日)、大人7500円への価格改定、チケットの早期完売を確認。入場者約1500人は報道および主催側の例年表現と整合。人口は記事で335人(10月1日時点)、公式サイトの案内文では366人と差があるため、作中では具体的な人口を断定しないか記事の数字を使う。

人物

溝渕 遥(仮名)、27歳、高知市の歯科医院に勤める歯科衛生士。両親と市内に暮らす。ダムに沈んだ集落生まれの祖母を連れて謝肉祭へ行き、村の歯科巡回の手伝いを探していると聞く。来春の主任の話と、結婚を考える恋人がいる。 名前:溝渕 遥(みぞぶち はるか、仮名)、27歳、歯科衛生士。高知市内の歯科医院に勤めて6年。 家庭・生活:市内の実家で両親と同居。母方の祖母(84歳)は近所で一人暮らし。交際3年の恋人(県外転勤もある会社員)と結婚の話が出始めている。 過去:祖母は山の村の、後にダムに沈む集落で生まれ、少女の頃に一家で移った。村の話はほとんどしない。遥は高校時代に祖母の入れ歯の不調を見たのがこの仕事を選ぶきっかけの一つだが、人にはそう話していない。 悩み:院長から来春の主任の話があるが、自費診療の勧めや予約の詰め込みに疲れている。謝肉祭の帰りに村の人から歯科巡回の手伝いを探していると聞き、頭から離れない。 喜び:患者の歯ぐきが良くなること、休日に原付で川沿いを走ること、祖母と食べる昼ご飯。 本音:役に立ちたいのではなく、今の職場と結婚の話から逃げたいだけではないかと疑っている。祖母を理由にしている自分が少し嫌い。

三枚のカード

  • 過去:戦車(正位置)
  • 現在:魔術師(正位置)
  • 未来:皇帝(逆位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年11月3日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。