はじめの数年、亮の耳には霧がかかっていた。
ラインの男たちの英語は速く、岡本工場長の日本語は曖昧だった。聞き取れないとき、亮は笑ってうなずいた。妻の実家の食卓でもそうした。義父のデイルと義弟のコーディが言い合いを始めると、ジェンが「亮には早すぎて分からないのよ」とかばってくれた。
霧はいつのまにか晴れた。「検討します」が断りだと訳さずとも分かるようになり、コーディが父親に投げる言葉の、どこが冗談でどこが本気かも聞き分けられるようになった。工場長の言葉は工場長の言葉として、一語も足さず引かずに渡す。そう評判を取り、ラインの男たちは亮の前で何でも話した。この男は通り道だから。食卓でも亮は、分からないふりだけをやめずにいた。
市民権の申請書は三週間前に取り寄せ、車のサンバイザーに挟んであった。署名欄は空いていた。
◇
投票日の朝、亮は工場長の通知を訳して掲示板に貼った。投票のための中抜けを二時間まで認める。昼に中抜けを取り、膝の悪いデイルを小学校の体育館まで送った。駐車場で待つあいだ、列の人々を眺めた。見知った顔がいくつもあった。亮だけが、車の中にいた。
夜、妻の実家のテレビは開票速報を流していた。
デイルが胸から丸いシールを剥がし、二歳のハナのジャンパーに貼った。「アイ・ヴォーテッド」と読んでやると、ハナは胸を押さえて亮を見た。
「パパも、シール」
「パパはないんだよ」
コーディが笑った。父親と反対の名前を書いてきたばかりで、機嫌がよかった。「親父の一票は俺ので消えた。亮は得だぜ。誰にも恨まれない」
亮も笑おうとした。
「おまえはどう思う」
デイルが画面を見たまま言った。
「九年そこで聞いてきたんだ。もう分かってるだろう」
このやりとりを、亮はこれまで百回ほどやり過ごしてきた。日本人だから。投票権がないから。ジェンが肉を切る手を止めた。ハナが胸のシールを指でこすっていた。崖の縁に立っているとは思わなかった。ただ、足が軽かった。
「もし書けるなら」
亮は一つの名前を言った。コーディの書いた名前だった。
「書けるようにします。申請書はもう、車にあります」
コーディが立ち上がって肩を叩いた。「聞いたか親父。九年かけて一番まともなやつが言ったぞ」
デイルはしばらく黙っていた。それからハナを呼び、ジャンパーのシールを丁寧に剥がして、自分の胸に貼り直した。
「来週の膝の病院は、コーディに頼む」
それで全部だった。
帰りの車で、ジェンはサンバイザーの紙を抜いて眺め、白い署名欄を見て元に戻した。
「そろそろ、ってわたしが言ったのはね、二人で話そう、って意味だった」
後ろの席でハナが眠っていた。留守電に新潟の母の声が入っていた。そっちは選挙だってね、変わりないね。亮はかけ直さなかった。何から話せばいいのか、どの言葉でも足りなかった。
◇
翌朝、開票はまだ続いていた。
六時半のミーティングの前に、コーディはもう話し終えていた。ロッカーの前で何人かが亮に親指を立て、何人かが目をそらした。昨日まで亮の前で何でも話していた男たちが、亮が通ると声を落とした。
工場長は第二ラインの残業の割り振りが変わると言い、亮はいつものように訳した。一語も足さず、引かなかった。
デイルと三十年同じラインにいたハンクが手を挙げた。
「今のはボスの言葉か。それとも、おまえの言葉か」
笑いは起きなかった。亮はハンクを見た。ハンクは亮を見ていた。
「ボスの言葉です」
「そうか」ハンクは手を下ろした。「前はそんなこと、聞かずに済んだんだがな」
岡本工場長が、老眼鏡の上から亮を見た。
「安西くん、いま何て」
男たちの目が集まっていた。工場長の目も。亮は口を開いた。九年、この瞬間のために耳を鍛えてきた。一語残らず聞こえていたし、どう言えばいいかも正確に分かっていた。
「質問は、特にないそうです」
工場長はうなずき、次の議題に移った。
亮はそれを、英語に訳した。