月夜の短編集

2026.11.02 / 地域

預かり

皇帝・正位置
過去 皇帝・正位置
運命の輪・逆位置
現在 運命の輪・逆位置
女帝・正位置
未来 女帝・正位置

七年前の冬、離婚届を出した週に、志保は親方の奥さんから十五万円を前借りした。

借用書はいらんよ、と奥さんは言った。志保は自分で紙を書き、給料日ごとに返す額を並べて判を押した。八回の給料日で、一度も遅れずに返し終えた。打ち場でも同じだった。誰より先に来て、休んだ者の席を埋め、新しく入った者にナイフの持ち方を教えた。息子の前で泣いたことはなかった。ナイフは人に触らせず、自分で研いだ。

◇

去年、海でカキが死んだ。打ち場の席は半分になり、志保は夜のスーパーで品出しを始めた。

介護施設から正社員の話が来たのは夏だった。資格の費用も出すという。返事はいつまでにと聞かれ、カキの出来を見てから、と答えた。水揚げはいつもなら秋の初めだ。それで間に合うはずだった。

ところが海はいつまでも冷えず、解禁は延びた。施設には二度頭を下げて、待ってもらった。打つカキもないのに、志保はナイフを三度研いだ。研ぐたびに刃は細くなった。冷蔵庫には、息子の模試の振込用紙が貼られたままだった。

三十日遅れの解禁の朝、奥さんから電話があった。「今年も頼むよ」。昼のテレビでは、西の沖の生産者が、今年は身がええと日焼けした顔で笑っていた。同じ県の、同じ日の海だった。

親方の船は昼過ぎに戻った。クレーンで上げたカゴを、親方は何も言わずに打ち場の床へ下ろした。

志保は席につき、殻にナイフを入れた。空だった。次も、その次も、黒い泥が少し出るだけだった。七つ目で刃に手応えがあり、身がするりと外れた。小ぶりだが白く締まっている。ざるに落ちる音を聞いて、自分が息を止めていたことに気づいた。十に一つ、と隣の席の年寄りが言った。

夕方までに、むき身はざる二つにしかならなかった。いつもなら朝のうちに打つ量だった。

片づけのあと、奥さんが帳場から呼んだ。石油ストーブの前に座らされた。

「ナイフ、出しんさい」

差し出すと、奥さんは親指の腹で刃を確かめた。

「よう研いどる」

そして手ぬぐいで巻き、金庫の上の茶筒に立てた。

「今年はこれだけじゃ。うちは年寄りで回す」

「朝、頼むよって」

「朝は、まだ船が出とらんかった」

「ざる二つでも、私、やれます」

「施設の返事、明日までじゃろ」

志保は黙った。誰にも言っていなかった。

「この町で知らんのは、カキくらいのもんよ」奥さんはストーブの火を少し絞った。「去年な、明日は仕事がない言うて電話したら、あんた、声がちいと軽うなった」

志保の膝の上で、右手が動かなくなった。

「二十年聞いとりゃ分かる。責めとりゃせん。わしにも、そういう朝はあったよ」

「奥さん」

「カキはうちが世話する。あんたが世話せにゃいけんのは、あっちじゃろ」

奥さんは顎で、息子の高校のある山のほうを指した。

「カキが戻ったら返す。戻らんかったら、わしの棺に入れてもらう」

それで話は終わりだった。前借りのときと違って、紙はなかった。奥さんは今日のむき身を一袋、志保の手に持たせた。袋の半分は、奥さんが自分で打ったものだった。

帰り道、バス停のベンチで、志保は施設の番号を画面に出した。明日かければいいのだと思い、消した。右手は握りの形のまま、袋の持ち手をうまくつかめなかった。

晩、鍋に入れたカキを、息子は三つ続けて食べた。

「うまいな。今日のじゃろ。母さんが打ったん」

箸の先の身は、どこも欠けていなかった。

「奥さんが打ったんよ」

志保はそう言って、左手で汁をよそった。

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ニュースと選定

題材は「去年大量死 広島の養殖かき 今季水揚げ始まる 期待と不安の声」。 昨季に大量死の被害を受けた広島特産の養殖カキの水揚げが、例年より約1か月遅れて11月2日に解禁された。昨季の生産量は平年の約6割にとどまった。今季も広島県中部の海域を中心に一部で大量死が報告され、水揚げを遅らせる業者もある。宮島沖のように成育が例年並みとする声がある一方、東広島市沖では「生きているのは10分の1」という声もあり、海域で明暗が分かれる。 別系統の報道で裏付け済み:読売新聞(廿日市市沖、昨季は多いところで7〜9割死亡、今季も県中部で一部大量死)、時事通信(昨季生産量は平年の約6割、東広島市沖で「生きているのは10分の1」)、産経新聞(広島かき生産対策協議会の話)、テレビ新広島/FNN。いずれも2026-11-02配信。県の一次発表は未確認(協議会の話は報道経由)。NHK記事は冒頭のみ閲覧。

人物

門田 志保(仮名)、44歳、広島県呉市の沿岸部。カキ打ち場で約20年カキをむく打ち子。離婚後、高校2年の息子と二人暮らし。昨季は仕事が半減しスーパーの夜間品出しを兼業。介護施設から正社員の誘いがあり、打ち場の親方の妻から今季も頼むと電話が来た。 名前:門田 志保(仮名)/44歳/カキ打ち場の打ち子(むき身の量に応じた歩合と時給の併用)。 家庭・生活:呉市の沿岸部の借家で高校2年の息子と二人暮らし。7年前に離婚。元夫からの養育費は途切れがち。冬場は早朝から打ち場、昨季からスーパーの夜間品出しを兼業。 過去:24歳のとき、子ども時代から知る親方夫婦の打ち場に入った。離婚のときは親方の妻に支えられ、前借りもさせてもらった恩がある。手はいつも傷だらけで、ナイフは自分の手に合わせて研いでいる。 悩み:昨季は大量死で打ち場の仕事が半分に。今季も分からない。知人の紹介で介護施設から資格取得支援付きの正社員の誘いがあり、息子の進学費用を考えると魅力的。 喜び・希望:殻にナイフを入れて身がきれいに外れる瞬間。打ち場の女たちとの昼の茶。息子が最近、進路の話をしてくれるようになった。 言いにくい本音:昨季、今日は仕事がないと聞いた朝に少しほっとした。カキが死んで困っている人たちの中で、それを誰にも言えない。

三枚のカード

  • 過去:皇帝(正位置)
  • 現在:運命の輪(逆位置)
  • 未来:女帝(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年11月2日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。