四十二の春、典子の仕事は、義母の枕元で決まった。
倒れた義母の布団を囲んで、夫と義姉が話し合い、「嫁がいるんだから」のひと言で片がついた。典子に聞く者はいなかった。典子は仕立て所の親方に頭を下げ、十二本の針を針山ごと持ち帰った。辞める日まで縫っていた自分用の紬は、身頃を仕付け糸で留めたまま、たとう紙に包んで押し入れの上の段に上げた。
それから二十六年、典子は一度も針を持たなかった。ボタンが取れれば娘に頼み、孫の雑巾は店で買った。縫えば負けだと思った。誰に負けるのかは、考えないことにしていた。
◇
その朝、新聞の地方面に、褒章を受ける人の名前が、年齢と仕事を添えて並んでいた。典子は眼鏡をかけ直し、指でたどった。和裁士、六十九歳。芳江の名前だった。
同じ年に仕立て所に入り、同じ板の前で運針を習った。速いのは典子のほうだと、親方はよく言った。芳江は不器用で、そのかわり一日も休まなかった。
電話をかけると、芳江は泣き笑いの声で礼を言い、それから声を落とした。
「伝達式が済んだら、仕立て所でささやかに祝うの。来てね。それとね、公民館の講座、若い人が二十人も来ちゃって、手が足りないのよ」
「私、もう二十六年触ってないよ」
「指が覚えてるって」
典子は、考えておくと言って切った。受話器を置いた手で湯呑みを持とうとして、持てなかった。その道一筋、と記事の見出しにあった。一筋でなかった者が教えていい場所など、あるはずがなかった。
◇
夕飯は週に二度、娘の家の台所でとる。その晩も鍋を囲んだ。夫の勝男は新聞を畳んで脇に置き、黙って豆腐をすくった。
「芳江さん、褒章だって」と娘の真弓が言った。「すごいね。お母さんの同期でしょう」
「そう」
「お祝い、行くの」
典子は答えなかった。真弓は箸を置いた。
「昼間、芳江さんからうちにも電話があったよ。お母さんの返事は急がないって。だから私、行きますって言っといた。講座も」
「勝手に」
「勝手に決められたこと、あったでしょう。私、十五だったけど覚えてるよ。お母さんが針山を抱えて帰ってきた日」
勝男の箸が止まった。あの春のことを、この家で口にした者はいなかった。
真弓は隣の部屋へ行き、たとう紙の包みを持って戻った。紙は黄ばみ、角が柔らかくなっていた。
「押し入れの上の段。結衣が見つけたの」
母親の後ろから、十歳の孫が顔を出した。
「ばあば、これ途中なの。白い糸、抜いちゃだめなの」
典子は包みを開いた。仕付け糸は、二十六年前に自分がかけたとおりの間隔で、身頃を留めていた。少しも緩んでいなかった。
「これはね、縫い上がったら抜く糸なの」
「じゃあ、縫えばいいじゃん」
結衣はあっさり言った。
勝男が湯呑みを置いた。「あの針なら、茶箪笥の下の引き出しにある」
典子は夫の顔を見た。とうに捨てられたものだと思っていた。勝男はそれ以上何も言わず、鍋に白菜を足した。
結衣が引き出しから針山を持ってきて、一本を抜き、蛍光灯にかざした。
「ばあば、目が悪いでしょ。糸、私が通してあげる」
小さな指が糸の先を舐め、針穴に向けた。一度目は外れた。二度目で通った。結衣は糸の垂れた針を、典子の前に差し出した。
典子は、それを受け取った。指は、思っていたほど迷わなかった。