母は季節の変わり目の朝になると、箪笥の裏から水を出した。
二リットルのボトルが六本、壁との細い隙間に立ててあった。母はそれを一本ずつ庭へ運び、封を切って、柚子の根元にゆっくり空けた。隙間には農協で買ってきた新しいのを六本入れ、鉛筆で何か書きつけて、箪笥を元のとおりに直す。小学生の達也が、もったいないと言うと、母は笑った。
「飲まんで済んだき、木にやるがよ」
達也は高校を出ると町を離れ、高知市内の店で十数年働いた。家にはほとんど帰らなかった。母の葬式の段取りで父と揉めてからは、なおさらだった。
◇
離婚して娘の美帆を連れて戻り、四年になる。達也は町のホームセンターで防災用品の売り場を任されていた。美帆は学校で習った避難路の地図を描くのが好きで、居間の壁に何枚も貼っている。
その朝、本部から掲示用の紙が届いた。防災庁が発足し、大臣が国民に緊急要請を出したという。昼までに、売り場には年寄りの列ができた。動かさんでも付けられますか、と聞かれるたび、達也は金具を手に取り、場所を変えずに天板と柱をつなぐやり方を説明した。水は一人一日三リットル、最低三日、できれば一週間。
同じ説明を、達也は家でも少しずつ言葉を変えて父にしてきた。父は茶を飲みながら聞き、最後に「あれは母さんが置いた場所じゃ」と言う。それで話は終わり、また次の晩に少しだけ始まる。高台の店への異動の返事も、もう二度延ばしていた。
要請の紙の一行が、目に留まった。固定していない家具は必ず倒れると思ってください。
達也はそれを一枚余分に刷って持ち帰り、冷蔵庫に貼った。翌朝、父は長いことそれを読み、何も言わずに定期の診察へ出かけた。バスは四時まで戻らない。反対されなかった、と達也は思った。思うことにした。休みの日だった。
金具とビスは買ってあった。引き出しを抜き、肩を入れて箪笥を手前へずらすと、畳に四つの深い跡が現れた。隙間に水が六本立っていた。ラベルの期限は新しかった。
裏板に、鉛筆の字が並んでいた。三の一、六の一、九の一、十二の一。母の丸い字が何段も続き、ある行から硬い字に変わっている。硬い字は六年分続いて、いちばん下は九の一だった。
達也は時計を見た。二時半だった。説明はあとでいい、と思った。倒れたら全部同じだ。水を廊下へ出し、箪笥を壁際まで押し込んだ。金具の都合で、隙間は指一本分もなくなった。柱の位置は見当で決め、下穴を開けてビスを打った。売り場で何百回も説明した手順だった。二十分で終わった。
◇
父は四時のバスで帰ってきた。箪笥の前に立ち、廊下の水を見て、それから金具を見た。
「要請か」
「必ず倒れる、て書いちゅう」
父は指を一本、金具にかけて軽く引いた。ビスの頭がわずかに動き、壁の砂がさらさらと畳に落ちた。
「ここは柱やないき。柱は二寸右じゃ」
達也は何も言えなかった。
「もう、裏には手が入らんな」
父はボトルを二本提げて庭へ出た。学校から帰った美帆が、ランドセルを置くなり二本抱えて後を追った。
「まだ替える日やないのに」
「今日で終いじゃ」
美帆は慣れた手つきで封を切り、ボトルの底を片手で支えて、柚子の根元へ傾けた。九の一の朝も、その前の朝も、この二人がここに立っていたのだと、達也はそのとき知った。
達也は残りの二本を提げて庭に下りた。言うつもりだった言葉がいくつもあった。説得の順番も、娘のためという言い方も、用意してあった。
「お父」
「明日、柱に打ち直せ」父は柚子を見たまま言った。「それから高台へ行け。美帆に、あっちの地図も描かさんといかん」
いつから知っていたのか、達也は聞かなかった。
キャップをひねった。傾けても水はなかなか出ず、ごぼ、と一度詰まってから、根元の土へ落ちていった。美帆が隣で、最後の一滴まで振っていた。
空になったボトルは驚くほど軽かった。達也はそれを、どこへ戻すこともできないまま提げていた。