月夜の短編集

2026.11.01 / 文化

三千字

吊るされた男・逆位置
過去 吊るされた男・逆位置
死神・逆位置
現在 死神・逆位置
戦車・正位置
未来 戦車・正位置

二十代の佐和子は、印刷会社の奥の机で、他人の名前ばかり書いていた。

賞状の氏名、表彰の日付、年賀状の宛名。一枚書いて、見本と重ね、ずれがあれば書き直す。自分の名前を書く欄はどこにもなかった。上司は「浅見さんの字は癖がないから、どこに出しても困らない」と褒めた。それが褒め言葉なのかどうか、佐和子は考えないことにした。

教室を開いてからも、同じことを続けた。生徒の半紙に朱墨で丸をつけ、はみ出した払いを細い線で正す。お手本どおりに書けた子から、市の書き初め展で賞を取った。賞状が増えるたびに、佐和子は家賃の振込を自分の貯金から足した。生徒が四十人から十四人に減っても、やり方は変えなかった。変えれば、それまでの二十年が無駄になる気がした。

◇

筆文字のデータを作る会社の封筒は、三週間、文鎮の下にあった。

常用漢字と仮名、およそ三千字。楷書と行書で一揃い。権利はすべて会社に移る。報酬は教室の家賃の二年分ほどだった。担当の若い男は電話で、悪気のない声で言った。

「先生の字は癖がないので、学習にちょうどいいんです」

返事の期限は今週の金曜だった。佐和子は封筒を出しては戻した。引き受ければ、自分の字は誰の字でもないものとして、どこかで無数に使われる。断れば、この二階は春までもたない。どちらに決めても何かが終わる。終わらせないために、封筒は文鎮の下に戻った。

木曜の稽古のあと、四年生の美緒の母親が残った。スマートフォンを差し出す。福島の市が小学生から募ったしょうゆのポスターで、入賞作に「AIくさい」「字が全部似通っている」と書き込みが続き、子どもの名前まで広まって、市が公開をやめたという記事だった。

「美緒、冬の書き初め展に出すでしょう。だから先生、お願いがあって」母親は言いにくそうに笑った。「今年は、あんまり直さないでもらえますか。きれいすぎると、今はああ言われるみたいで」

佐和子は、壁に貼った美緒の去年の作品を見た。朱の跡が一つも残らないほど、整っていた。自分が整えた字だった。

母子を見送ってから、佐和子は一人で墨を磨った。半紙を一枚取り、お手本どおりに「山」と書いた。癖のない、どこに出しても困らない字だった。隣に、二年生の陽斗が今日書いた半紙を並べた。縦の画が紙の下まで突き抜け、右の肩がつんのめっている。佐和子は今日も、そこに朱を入れかけて、筆を止めたのだった。

二枚は、別々の方へ引っぱり合っていた。どちらかを捨てる話ではない、と佐和子は思った。手綱を持つのは自分だった。

◇

金曜の朝、佐和子は文鎮の下から封筒を出し、契約書の署名欄にボールペンで名前を書いた。急いだせいで「和」の口が潰れ、「子」の払いが欄からはみ出した。印刷会社の頃なら書き直した字だった。佐和子はそのまま封をして、商店街のポストに入れた。

三千字は、その日のうちに書き始めた。四週間かけて、癖のない字を、一字残らずお手本どおりに書く。それは向こうに渡す字だと決めた。

夕方の稽古で、佐和子は生徒たちに、お手本を配らなかった。

「今日は、自分の山を書いて」

陽斗が顔を上げた。「はみ出してもいいの」

「いい。先生は、赤を入れない」

朱墨の硯に、佐和子は蓋をした。陽斗の山は、また紙の下まで突き抜けた。美緒は長いこと筆を構えたまま動かず、それから、少しだけ傾いた山を書いた。

佐和子は二枚を受け取り、何も直さずに壁へ貼った。次の家賃は、ポストに入れた封筒が払ってくれる。その隣に貼る自分の一枚を、佐和子はまだ書いていなかった。けれど、どちらの字をどこへ渡すかは、もう決めてあった。

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ニュースと選定

題材は「小学生の絵に「AIくさい」 中傷相次ぎしょうゆコンクール公開中止」。 福島県喜多方市が特産しょうゆのPRを兼ねて市内の小学生から募った「醤油消費拡大推進ポスターコンクール」(148点応募)で、10月初旬に入賞作品と児童名を市HPに公開したところ、Xで「字が全部似通っている」「構図が整っていてAIくさい」などの投稿が相次ぎ、児童名も拡散。市は16日までに掲載を中止した。画用紙での提出だったことから市は「児童が描いたもの」との立場で、児童の安全を優先したと説明。生成AI使用の明確な制限は設けておらず、今後応募要件等を検討するとしている。11月14日の全国醤油サミットinきたかたで表彰予定。 別系統報道:J-CASTニュース(10/16)が市の発表文を引用し、掲載中止・生成AI使用の制限を設けていなかったこと・応募148点・入賞10点を報道。一次情報:喜多方市HP「醤油消費拡大推進ポスターコンクールについて」(商工観光課)のページが存在。全国醤油サミットinきたかた(11/14)も市HPで確認。朝日記事は有料のため冒頭部分のみ確認。配信日:朝日2026年10月31日7時00分(Yahoo!配信も同日)。

人物

浅見 佐和子(仮名)、55歳、岡山県の城下町で自宅とは別に借りた部屋で書道教室を20年営む。夫(市役所勤め)と二人暮らし、息子は独立。生徒減と家賃に悩む中、筆文字データの会社から自分の字の買い取りを打診されている。 名前:浅見 佐和子(仮名)/55歳/書道教室主宰(師範)。家庭・生活:岡山県北部の城下町。商店街の空き店舗の二階を借りて教室を開き20年。夫・浩(58)は市役所の会計課勤めで定年が近い。一人息子(27)は大阪で就職し独立。生徒は最盛期の40人から14人に減り、教室の家賃が家計に重い。過去:高校まで書道部、短大卒業後に地元の印刷会社で年賀状の宛名や賞状の筆耕をしていた。結婚・出産を機に退職し、師範を取って教室を開いた。お手本どおりに整った字を書かせる指導で、生徒の入賞実績が教室の看板。悩み・葛藤:筆文字フォント/AI学習データを作る会社から「先生の字を約3千字書いてほしい、権利ごと買い取る」との打診。報酬は教室の家賃2年分ほど。生徒の字を「お手本どおり」に寄せてきた自分の指導が、機械の『整い』と同じものではないかと揺らいでいる。喜び・希望:小学2年の男の子が毎回はみ出すほど大きな「山」を書くのが楽しみ。いつか自分の字で商店街ののれんを書きたい。言いにくい本音:実は自分の字に個性がないと昔から感じていて、買い取られることで『それでも価値がある』と言われたい気持ちと、『誰の字でもない』と突きつけられる怖さの両方がある。

三枚のカード

  • 過去:吊るされた男(逆位置)
  • 現在:死神(逆位置)
  • 未来:戦車(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年11月1日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。