義母が亡くなった翌朝も、和代は六時に揚げ油に火を入れた。
店を続けるとも、たたむとも、誰も口にしなかった。夫の昭は葬儀の疲れで二階から下りてこず、和代は一人でじゃがいもを潰し、衣をつけ、油に落とした。いつもの音がした。開店の札を返すと、向かいの呉服店のおばあさんが、黙って一つ買っていった。それで十二年が過ぎた。始めたわけでも、終わらせたわけでもない店で、和代は毎朝、同じ音を聞いてきた。
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その角の呉服店も、今は空き家になって四年になる。建物は商店街の組合が持っていて、ドラッグストアの会社が買いたいと言ってきた。売ったお金で、雨漏りのするアーケードの屋根を直す。理事会でその案が出たとき、和代だけが「反対です」と言った。誰も聞き返さなかった。組合の決めごとは、昔から全員一致だった。
会計の理事として、数字はすべて和代の手元にあった。屋根の見積もり、売値、店ごとの組合費、空き店舗の数。帳簿と電卓とボールペンを並べれば、売るほかないことは、誰よりも先に分かっていた。ドラッグストアは鶏肉を百グラム九十八円で売る。うちは百四十八円だ。それも分かっていた。
総会の前の日曜、店のテレビで、背広の年寄りが話していた。反対だと言ってきたが、党で決まったことだから採決では賛成する。自分の考えと違う法律は、これだけではない。
昭がコロッケをつまみながら笑った。「偉い人もお前と一緒やな」
和代は笑わなかった。ずるい、と思った。けれど、その言い方なら、反対したことを嘘にせずに手を挙げられる。その夜、和代は帳簿の裏に、言うことを書いた。私は反対です。それでも、決まったことなので賛成します。二行にすると、ずいぶん楽になった。
◇
総会は呉服店の二階で開かれた。畳に座布団が二十八枚並び、売却の議案には三分の二の賛成が要ると、組合長が読み上げた。
「篠田さん、会計から一言」
和代は立って、帳簿の裏を読んだ。一行目を読み終えたところで、部屋の空気が変わったのが分かった。
「会計が反対なんか」
奥で、金物屋の主人が言った。「数字を一番知っとる人が反対やったら、なんかあるんやろ」
「ちゃいます。数字は売るしかないって」
「ほんなら、なんで反対なんや」
和代は二行目を読んだ。誰も聞いていなかった。テレビのあれやな、と誰かが小さく言い、何人かが笑った。手が挙がり始めたとき、和代の前の三人は膝に手を置いたままだった。数えると、十七。三分の二には二本足りなかった。
翌週、ドラッグストアの会社は、駅の反対側の空き地に店を出すと組合に伝えてきた。屋根の修理代は、店ごとの負担金で賄うことになった。和代は会計として、その額を電卓で割った。一軒あたり八十二万円。自分で読み上げた。
その晩、昭は湯呑みを置いて言った。
「うちは払えんな。閉めよか」
責める声ではなかった。むしろ、ほっとしたような声だった。和代も、そうしたかったはずだった。駅の向こうに大きな店ができて、客が流れて、仕方なく閉める。誰のせいにもできる閉め方を、ずっと待っていた。
いま、閉める理由は、総会の座布団の上に立った自分の二行目の前にあった。
翌朝、和代は六時に揚げ油に火を入れた。閉める日までのぶんの、じゃがいもを潰した。通学の子が二人、ガラスの前に立った。和代はいつものように、売り物にならない形のを一つずつ、紙に包んで渡した。
「おばちゃん、ここ閉まるってほんと」
「ほんと」
「なんで」
和代は答えずに、次の衣をつけた。油の音だけが、いつもと同じだった。