沙耶が生まれた夜、恭平は渋谷のライブハウスに合鍵を返しに行った。
十代の終わりから七年、照明卓の横に座らせてもらっていた店だった。店長は鍵を受け取り、「もう来ないのか」とだけ聞いた。恭平はうなずいた。夜の街で覚えたことは、一つ残らず家の外に置いてくると決めていた。
決めごとはそれからも増えた。門限は十時。駅からは大通りを歩く。知らない人の車には乗らない。娘が中学に上がった年、そこにもう一行が加わった。ハロウィーンの夜の渋谷にだけは行くな。理由を聞かれても、恭平は答えなかった。自分があの街で何をして、誰を置いて逃げたのかを、娘に話すつもりはなかった。決めごとは家の柱のように立ち、沙耶は文句を言いながらも、その内側で大きくなった。
◇
ハロウィーンの夜、恭平は道玄坂の雑居ビルの入口に立っていた。
区が路上での飲酒を禁じ、駅前には監視台が組まれ、警備員がそこらじゅうに立った夜だった。管理会社からは、入口の階段に人を座らせるなと言われていた。缶を持った若者が腰を下ろすたび、恭平は「すみません、ここは」と頭を下げた。
十時を過ぎたころ、笑い声の一団が坂を上ってきた。黒い羽を背中につけた娘が、その真ん中にいた。頬に銀の粉をはたき、家では一度も見せたことのない大きな口で笑っていた。沙耶は父親の立つ階段の前を、一度も振り向かずに通り過ぎた。
明け方の掃除で、恭平は階段の隅にコウモリの形の髪留めを見つけた。片方の羽だけで、ばねが折れていた。
家に帰ると、沙耶は台所でパンを焼いていた。
「おかえり。寒かった?」
いつもの声だった。恭平は上着のポケットの中で髪留めを握った。返せば、見ていたと言うことになる。捨てれば、見なかったことになる。どちらも選べないまま、恭平は食卓についた。
テレビが朝のニュースを流していた。渋谷は混雑したものの、大きなトラブルは確認されていないと警視庁は発表しています。画面に、恭平が一晩見張っていた坂の下の交差点が映った。夜勤明けの千夏が「よかったわね、何もなくて」と言った。沙耶はパンをかじりながら、「毎年おおげさなんだよ」と言った。
何もなかった。それなら、叱る理由もない。恭平はその言葉にすがるように思った。叱らずに、黙ってもいない方法がある気がした。
◇
その日の午後、恭平は眠らずに机に向かった。ラジオの修理に使う細い真鍮線を曲げて、折れたばねの代わりを作った。羽の縁の欠けをやすりで整え、こびりついた銀の粉を拭きとった。小さな紙袋に入れ、使い捨てのカイロを一つ添えた。メモには、来年は行っていい、父さんのビルの前を通れ、温かいものを用意しておく、と書いた。叱らない父親の、精一杯の贈りもののつもりだった。
夕方、沙耶は袋を開けて、しばらく黙っていた。
「……見てたの」
「入口に立ってた。仕事で」
「声、かけなかったんだ」沙耶は髪留めをつまみ上げた。羽が蛍光灯の下で鈍く光った。「街じゅうに見張りが立ってて、やっと何も起きなかったって言われて、うちに帰ったら、父さんも見張りだったんだ」
「そうじゃない。だから来年は」
「来年は、父さんの前を通って、父さんに見られながら行くの?」
沙耶は笑わなかった。
「今夜、言おうと思ってたんだよ。行ったって。すごく楽しかったって。ごめんって。晩ごはんのとき、ちゃんと言おうと思ってた」
紙袋を食卓に置いて、沙耶は自分の部屋へ行った。戸の閉まる音は小さかった。
千夏が台所から出てきて、メモを読み、何も言わずに袋へ戻した。
恭平は髪留めを手に取った。指で押すと、真鍮のばねは思っていたよりずっと固く、ぱちん、と音を立てて羽を閉じた。もう二度と折れそうになかった。挟むもののない髪留めは、恭平の手の中で、何度でも正確に閉じた。