七年前の秋、父の葬儀が済んだ晩に、しおりは民宿の帳場で母と言い合いをした。
継ぐのか、継がないのか。母はそれしか聞かなかった。しおりは、名古屋の仕事のことも、父が倒れる前から考えていたことも、何ひとつ口にしなかった。言えば泣くと分かっていたから、黙って宿帳の角をそろえ続けた。母は最後に「もうええ」と言い、しおりは翌朝の始発で町を出た。
それからの電話は、いつも短かった。元気か。元気。ご飯は。食べてる。どちらも本当のことは言わなかった。スマートフォンの連絡先には、民宿の固定電話が「家」という名前で残っていて、しおりはそれを一度も押さなかった。
◇
浜通りの町に移って四年目、しおりは水産加工場で、冷蔵庫の温度を一時間ごとに記録している。マイナス二十度、異常なし。ラインのおばさんたちは「若い人がいると助かる」と言い、昼には煮しめを分けてくれる。ここでは自分の名前が毎日呼ばれた。
それでも年が明けたら一度帰ろうと、しおりは決めかけていた。秋口から、母の声が細くなった気がしていたからだ。帰って、継ぐと言うべきなのか。言えば、この町の煮しめも、冷蔵庫の数字も手放すことになる。決めかけては、ほどいた。往復の切符を調べる画面は、いつも途中で閉じた。
◇
その朝、七時過ぎに部屋が揺れた。
棚の湯呑みが鳴り、猫が押し入れに飛び込んだ。テレビをつけると、震源は三重県の南東沖だと出ていた。母の町の沖だった。なのに、震度の地図は向こうがほとんど白く、こちらの海沿いばかりが色づいている。深いところで起きた地震は、遠くのほうが揺れることがある、と気象の人が説明していた。
しおりは考えるより先に、「家」を押していた。七年間、一度も押さなかった番号だった。
呼び出し音の代わりに、女の人の声が流れた。おかけになった電話番号は、現在使われておりません。
指が冷たくなった。母の携帯にかけ直すと、三回目で出た。
「なに、こんな朝から」
「地震。そっちが震源やって」
「ああ、テレビで見た。こっちは何ともないよ。あんたのほうが揺れたんやろ。大丈夫なん」
母は笑っていた。声はやはり細かった。
「家の電話、つながらんかった」
少し間があって、母は「言うてなかったかね」と言った。
「宿、春に閉めたんよ。お客さんも減ったし、膝もあれやし。建物は漁協の人に貸して、母さんは港の上の住宅に移った。壁が薄いもんで、大きい声出されへんの」
細い声の理由は、それだけだった。
「継がんでええように、ちゃんと畳んどいたから。心配せんとき」
しおりは、言いかけていた言葉を探した。年明けに帰ろうと思っていたこと。継ぐと言うつもりだったかもしれないこと。どれも、もう向ける先がなかった。宿帳の角をそろえていた晩の指の感触だけが、妙にはっきり戻ってきた。
「そっか」
「そっちは、ええとこなんやろ」
「うん」
「ほんなら、それでええやないの」
電話が切れてから、しおりは連絡先の「家」をしばらく見ていた。春から、どこにもつながっていなかった番号。その番号の前で、半年あまり、帰るか残るかを決めかねていたのだった。
消さずに画面を閉じ、作業着に袖を通した。工場の前では、もうおばさんたちが集まっていた。
「揺れたねえ。どこやったん、震源」
「遠いところです」としおりは答えた。「向こうは、何ともなかったって」
冷蔵庫の扉を開け、温度計を読んだ。マイナス二十度。しおりは記録表に数字を書き込み、その横の欄に、いつものように丸をつけた。