月夜の短編集

2026.11.01 / 科学

遠いところ

女教皇・逆位置
過去 女教皇・逆位置
運命の輪・逆位置
現在 運命の輪・逆位置
世界・正位置
未来 世界・正位置

七年前の秋、父の葬儀が済んだ晩に、しおりは民宿の帳場で母と言い合いをした。

継ぐのか、継がないのか。母はそれしか聞かなかった。しおりは、名古屋の仕事のことも、父が倒れる前から考えていたことも、何ひとつ口にしなかった。言えば泣くと分かっていたから、黙って宿帳の角をそろえ続けた。母は最後に「もうええ」と言い、しおりは翌朝の始発で町を出た。

それからの電話は、いつも短かった。元気か。元気。ご飯は。食べてる。どちらも本当のことは言わなかった。スマートフォンの連絡先には、民宿の固定電話が「家」という名前で残っていて、しおりはそれを一度も押さなかった。

◇

浜通りの町に移って四年目、しおりは水産加工場で、冷蔵庫の温度を一時間ごとに記録している。マイナス二十度、異常なし。ラインのおばさんたちは「若い人がいると助かる」と言い、昼には煮しめを分けてくれる。ここでは自分の名前が毎日呼ばれた。

それでも年が明けたら一度帰ろうと、しおりは決めかけていた。秋口から、母の声が細くなった気がしていたからだ。帰って、継ぐと言うべきなのか。言えば、この町の煮しめも、冷蔵庫の数字も手放すことになる。決めかけては、ほどいた。往復の切符を調べる画面は、いつも途中で閉じた。

◇

その朝、七時過ぎに部屋が揺れた。

棚の湯呑みが鳴り、猫が押し入れに飛び込んだ。テレビをつけると、震源は三重県の南東沖だと出ていた。母の町の沖だった。なのに、震度の地図は向こうがほとんど白く、こちらの海沿いばかりが色づいている。深いところで起きた地震は、遠くのほうが揺れることがある、と気象の人が説明していた。

しおりは考えるより先に、「家」を押していた。七年間、一度も押さなかった番号だった。

呼び出し音の代わりに、女の人の声が流れた。おかけになった電話番号は、現在使われておりません。

指が冷たくなった。母の携帯にかけ直すと、三回目で出た。

「なに、こんな朝から」

「地震。そっちが震源やって」

「ああ、テレビで見た。こっちは何ともないよ。あんたのほうが揺れたんやろ。大丈夫なん」

母は笑っていた。声はやはり細かった。

「家の電話、つながらんかった」

少し間があって、母は「言うてなかったかね」と言った。

「宿、春に閉めたんよ。お客さんも減ったし、膝もあれやし。建物は漁協の人に貸して、母さんは港の上の住宅に移った。壁が薄いもんで、大きい声出されへんの」

細い声の理由は、それだけだった。

「継がんでええように、ちゃんと畳んどいたから。心配せんとき」

しおりは、言いかけていた言葉を探した。年明けに帰ろうと思っていたこと。継ぐと言うつもりだったかもしれないこと。どれも、もう向ける先がなかった。宿帳の角をそろえていた晩の指の感触だけが、妙にはっきり戻ってきた。

「そっか」

「そっちは、ええとこなんやろ」

「うん」

「ほんなら、それでええやないの」

電話が切れてから、しおりは連絡先の「家」をしばらく見ていた。春から、どこにもつながっていなかった番号。その番号の前で、半年あまり、帰るか残るかを決めかねていたのだった。

消さずに画面を閉じ、作業着に袖を通した。工場の前では、もうおばさんたちが集まっていた。

「揺れたねえ。どこやったん、震源」

「遠いところです」としおりは答えた。「向こうは、何ともなかったって」

冷蔵庫の扉を開け、温度計を読んだ。マイナス二十度。しおりは記録表に数字を書き込み、その横の欄に、いつものように丸をつけた。

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ニュースと選定

題材は「三重県南東沖でM6.1の深発地震 東北地方で震度3の「異常震域」」。 11月1日午前7時15分ごろ、三重県南東沖の深さ約350kmを震源とするM6.1の地震が発生。震源に近い東海・近畿では最大震度1程度だった一方、遠く離れた福島県大熊町・双葉町・浪江町で最大震度3、北海道から関東の広い範囲で震度2を観測した。沈み込んだ太平洋プレート内で起きた深発地震で、地震波がプレートに沿って減衰せずに伝わる「異常震域」とみられる。津波の心配はなく、南海トラフとの関連もないとされる。 ウェザーニュース(11/1 7:23・8:01)、日本経済新聞/共同通信(11/1 8:13、9:28更新)、CBCテレビ(11/1 8:04)が同内容を報道。日経・共同は気象庁の見解として「太平洋プレート内部で発生、異常震域とみられる」と伝えている。気象庁の地震情報ページそのものは未確認。配信日は11月1日で確認済み。

人物

仲井 しおり(仮名)、31歳、福島県浜通りの町に4年前移住し水産加工会社で品質管理をする。一人暮らし(猫1匹)。母は三重の海辺の町で亡父の民宿を一人で続け、帰って継いでほしいと言う。今朝の地震で、震源に近い母の町は揺れず自分の部屋が揺れた。 名前:仲井 しおり(仮名)、31歳、女性。 職業:福島県浜通りの沿岸の町にある水産加工会社で品質管理(検品・温度記録・衛生チェック)を担当。4年前、移住支援の募集を見て移り住んだ。 家庭環境・生活:町営の復興住宅に近いアパートで一人暮らし。保護猫を1匹飼っている。職場では「若い人が来てくれて助かる」と言われ、町の祭りの準備にも呼ばれるようになった。 過去:三重県の海辺の町(震源の沖に近い地域)で、両親が営む小さな民宿の一人娘として育つ。高校卒業後は名古屋の食品会社に就職。父が亡くなった7年前、民宿を継ぐ・継がないで母と激しく喧嘩し、そのまま連絡を減らした。その後、ほとんど知り合いのいない浜通りの町へ。 今の悩み:母(63歳)は民宿を一人で続けているが、最近電話の声が細くなった。帰って継いでほしいと前から言われている。今朝、母の町の沖が震源の地震で、母の町はほとんど揺れず、遠い自分の部屋が震度3で揺れた。電話すると母は「こっちは何ともない、あんたは大丈夫か」と笑った。 喜び・希望:朝の市場の匂い、職場の年配の人たちとの昼食、少しずつ戻ってきた町の灯り。ここでなら自分は必要とされていると感じられる。 言いにくい本音:「必要とされる場所」を選んだのは、母に一度も必要とされていないと感じてきた裏返しかもしれない。母から遠いほうが、母のことをよく考えられてしまう自分が怖い。

三枚のカード

  • 過去:女教皇(逆位置)
  • 現在:運命の輪(逆位置)
  • 未来:世界(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年11月1日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。