十一歳までに、智之は四つの小学校に通った。
三つ目の学校に移る春、彼は自分に決まりをつくった。方言を覚えない。好きな場所をつくらない。誰かの家に上がっても、靴は揃えて玄関の端に置く。そうしておけば、引っ越しの朝に泣かずにすむ。ノートの裏表紙に鉛筆で書いたその決まりを、彼は誰にも見せず、誰にも破らせなかった。
決まりはよく効いた。転校の挨拶はいつも短く、別れの手紙は一通も来なかった。大人になって損害調査の仕事に就いても、それは変わらなかった。水に浸かった家、潰れた車、焼けた倉庫。他人の失くしたものの値段を、彼は顔色ひとつ変えずに書類に書き込んだ。妻はいつか、あなたは自分の家でも査定しているみたい、と笑った。笑っていない目で。
◇
松江に来て二年目の秋、その決まりはひとつ破れていた。
金曜の夜、駅から少し外れた路地の「汀」という店の戸を開けると、カウンターの奥から波子ママが「槙野さん、おかえり」と言う。七十七になるママは、彼の名前と、焼酎六にお湯四という割り方と、彼が三曲目にだけ歌う古い歌を覚えている。棚には、マスキングテープに「マキノ」と書かれたボトルが一本立っている。
その夜、ママはグラスを置くより先に、新聞の切り抜きをカウンターに滑らせた。
「金沢の話だわ。四十二年やったスナックを、ふらっと来た一見さんに譲ったんだと」
智之は切り抜きを読んだ。七十九のママと、四十六の女性が写っていた。意気投合して、と見出しにあった。
「うちもね、年内で閉めようと思っとったの。膝がもういけんけん。誰にも言っとらんかったけど」
ママは六と四を目で量るように、ゆっくりとお湯を注いだ。
「でもこれ読んで、閉めんで譲ろうかと思って。初めてのお客さんにね」
智之の胸の中で、何かがひとつ音を立てた。鞄の中には、地域限定社員への転換の申請書が入っている。締め切りは来週だった。ここに残れる。この店も、もしかしたら。妻の顔より先に、そんな絵が浮かんだ。
「僕じゃ、だめですか」
冗談の声で言ったつもりだった。ママは笑って、首を振った。
「常連さんは、だめなんよ。槙野さんらはこの店が好きでしょう。今のままの店が。そういう人に渡したら、店はそのまんま止まってしまうけん。金沢の人もそう思ったんじゃないかね。知らん人なら、自分の店にしてくれる」
ママはグラスを彼の前に置いた。いつもの湯気が立った。
「槙野さんは、うちの大事なお客さん。それで十分だわね」
◇
翌週の金曜も、彼は戸を開けた。戸には新しい貼り紙があった。〈この店を継いでくださる方を探しています。初めての方、歓迎〉。
三曲目を歌い終えてから、智之は棚のボトルを指さした。
「あの名前、剥がしてもらえますか」
ママが手を止めた。
「残りは、次に来る誰かに出してあげてください。僕はたぶん、春には帰るので」
言ってから、帰る、という言葉が自分の口から出たことに少し驚いた。ママは何も聞かずに脚立を引き寄せ、ボトルを下ろし、爪の先でテープの端をつまんだ。マキノ、という字は、一度で綺麗に剥がれた。
「最後に、割り方を教えてもらえますか」
「六と四。お湯を先に入れるの。焼酎は後から、静かに」
智之は自分でグラスにお湯を張り、ボトルを傾けた。焼酎は湯の中にゆっくり沈んで、境目がしばらく揺れ、それから見えなくなった。ひと口飲むと、ママの味より少し薄かった。
「ええが」とママは言った。それから、名札のなくなったボトルを、棚のいちばん端に戻した。
店を出ると、宍道湖のほうから冷たい風が吹いていた。智之は一度だけ振り返り、戸の灯りを見て、それから駅へ歩いた。