月夜の短編集

2026.10.31 / 国際

低い声

教皇・逆位置
過去 教皇・逆位置
月・正位置
現在 月・正位置
皇帝・正位置
未来 皇帝・正位置

二十歳の冬、環奈はモスクワの寮の机で、毎晩、新聞に辞書を当てていた。

語学学校の教師は、教科書の例文を一日百回書き写せと言った。環奈はそれをやめて、寮の角のキオスクで買う薄い新聞を、一記事ずつ訳した。読めない単語に丸をつけ、翌朝、同じ階のヴェーラに見せた。記者になりたいと言っていた彼女は、赤鉛筆で環奈の訳語を消しては、横に一言ずつ書いた。〈ちがう。この人は怒ってる。もっと低い声で〉。

教科書を捨てたつもりだった。けれど帰国してからも、環奈は毎朝一記事を訳し続けた。熱が出た日も、娘が生まれた朝も。十八年、一日も欠かさなかった。いつからか、やめるのが怖くなっていた。自分で選んだはずの型に、自分で縛られていることには、気づかないふりをした。

◇

その朝、環奈は台所で、やかんが鳴っているのにしばらく気づかなかった。

画面に、あの新聞が編集部を閉じるという記事があった。三十年あまり続いた編集部が、冬のはじめに解散する。理由も書いてあった。読めるのに、意味が入ってこなかった。

ヴェーラとのやりとりは、一年前で止まっている。最後に送った写真には、まだ既読がつかない。生きているのか、忙しいだけなのか、もう読みたくないのか。どれでもありうるし、どれとも決められない。

「沸いてるよ」

徹が火を止めた。食卓には、来年度の時間割の通知が広げてあった。ロシア語の授業が一コマ減る。夫は通知を畳みながら、英語の実務翻訳なら知り合いの会社に口をきける、と前にも言ったことをもう一度言った。責める口調ではなかった。それがかえって、答えにくかった。

「ママ、今日の一本は?」

娘の芽衣が、ノートの端に逆さのRを書きながら聞いた。母の机のキリル文字を、近ごろ面白がって真似している。

環奈は、今日訳す記事を選べなかった。閉鎖の記事を訳せば、それが最後の一本への数え始めになる気がした。訳さなければ、十八年が今日で途切れる。どちらとも決めないまま、環奈は流しの前に立って、窓の外が白んでいくのを見ていた。

◇

夕方、版元の編集者から電話があった。三年かけて訳し、延期になったままの短編集のことだった。

「作家ご本人から、今朝メールが来ました。日本での刊行は、見合わせてほしいそうです」

作家は若い頃、あの新聞にコラムを書いていた。編集部がなくなれば、記者たちは散り散りになる。訳者あとがきに一人でも名前が載れば、誰かに迷惑がかかるかもしれない。それが理由だった。

「片桐さんにも一言、と添えてあります。原文のまま転送しますね。うちでは読めないので」

届いたメールは短かった。環奈はそれを、いつもの朝と同じ手つきで訳した。辞書は引かなかった。最後の数行だけ、何度か打ち直した。

〈訳者の方へ。この本は、誰も止めに来る心配のない朝が来るまで、あなたの机の中に置いておいてください。それまで、私たちの言葉を手放さないでください。これはお願いではありません。私が決めたことです〉

「お願いではありません」のところで、環奈は一度、柔らかい言い方に直しかけた。ヴェーラなら、赤鉛筆で消しただろう。この人は怒ってはいない。けれど、低い声で言っている。環奈は元に戻し、そのまま送った。

しばらくして折り返してきた電話で、編集者は小さく息をついた。

「じゃあ、原稿はお返しします。片桐さんの机に」

その晩、徹は何も言わずに、冷蔵庫の扉に貼ってあった英語の会社の名刺を外し、手帳に挟んだ。芽衣はまだ、逆さのRの練習をしていた。

翌朝、環奈は閉鎖の記事を訳した。誰に見せるあてもない、十八年と一日目の一本だった。

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ニュースと選定

題材は「ロシア独立系新聞が編集部閉鎖へ ノーベル委員会「深く憂慮」」。 ロシアの独立系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」が、30年余り活動を続けてきた編集部を11月に閉鎖すると発表した。ウクライナ侵攻以降、プーチン政権下で厳しさを増す言論統制を象徴する出来事と受け止められ、ノーベル委員会は「深く憂慮」を表明した(NHK 10月31日6:37配信)。 主記事はNHK(10/31 6:37配信、リード部分のみ確認)。別系統報道として、ロイター(Yahoo!ニュース配信「ロシア独立紙『ノーバヤ・ガゼータ』廃刊へ、当局の圧力で」)、時事通信(「ロシア独立系紙『ノーバヤ・ガゼータ』が活動停止 ノーベル平和賞受賞」、10/30付)を検索結果の見出しで確認。本文は取得不可。一次情報(同紙編集部の発表)は直接確認できず、mezha.netの見出し「11月9日に休刊へ 編集部が発表」で間接的に確認したのみ。

人物

片桐 環奈(仮名)、39歳、東京の私立大学でロシア語の非常勤講師をしながら文芸翻訳をする。会社員の夫と小学5年の娘の三人暮らし。受講者減と訳書の出版延期の中で、ロシア語を続けるか英語の仕事に軸を移すか迷う。 名前:片桐 環奈(かたぎり かんな/仮名)、39歳。職業:東京都内の私立大学2校でロシア語の非常勤講師(週4コマ)。ほかにロシア現代文学の文芸翻訳と、企業向けの実務翻訳を少し。 家庭・生活:会社員(物流会社の経理)の夫と、小学5年の娘の三人暮らし。郊外の賃貸マンション。家計の柱は夫で、環奈の収入は不安定。娘は最近、母の机の上のキリル文字を面白がって真似する。 過去:大学3年の時に1年間モスクワに留学。最初は新聞が読めず、下宿先の近くのキオスクで買った独立系の新聞を辞書を引きながら毎日1記事ずつ訳したのが語学の土台になった。留学中に知り合った同い年の友人(記者志望だった女性)とは長く文通やメッセージを続けたが、侵攻後は返信が途絶えがちで、この1年は既読もつかない。 今の悩み:来年度、受講者減で1校のロシア語クラスが一コマ削減と内示された。3年かけて訳したロシア現代作家の短編集は、版元の判断で出版延期のまま。夫は『英語の実務翻訳に軸を移したら』と穏やかに勧め、それが現実的だと本人も分かっている。 喜び・希望:授業で学生が初めて長文を読み切った瞬間の顔。訳文の一行がぴたりと決まる夜。いつか延期中の訳書を出し、友人に送りたい。 本音:ロシア語が好きだと人前で言うのが、この数年で少し怖くなった。言葉を手放せば、あの頃の自分と友人を見捨てるような気がする一方で、本当はもう疲れていて、誰かに『やめていい』と言ってほしい気持ちもある。

三枚のカード

  • 過去:教皇(逆位置)
  • 現在:月(正位置)
  • 未来:皇帝(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月31日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。