月夜の短編集

2026.10.31 / 経済

削りしろ

愚者・正位置
過去 愚者・正位置
正義・逆位置
現在 正義・逆位置
運命の輪・逆位置
未来 運命の輪・逆位置

二十三の春、賢司は駅裏のトラットリアで、初めて麺を打たせてもらった。

シェフは粉の山に卵を落とし、指で井戸の縁を崩してみせると、あとは何も言わずに厨房を出ていった。分量も厚みも、誰も決めてくれなかった。賢司は打ちたいように打ち、切りたい幅で切った。不揃いな麺は鍋の中で妙に跳ね、皿の上でうねった。戻ってきたシェフは一本つまんで噛み、「好きにやったな」とだけ言った。

三年目の冬に店が閉まったときも、賢司は迷わなかった。腰に湿布を貼ったまま、栄養士の学校の願書を書いた。崖の縁を歩いている自覚は、あの頃の自分にはなかった。

◇

給食センターの事務室の壁には、四千食分の献立表が貼ってある。賢司がここで十二年かけて覚えたのは、料理ではなく引き算だった。牛を豚に、豚を鶏に。果物は二回に一回。前の献立表から冷凍みかんを外したとき、帳尻がぴたりと合って、賢司は少しほっとした。そのほっとした感じが、自分でも嫌だった。

三日後、小学三年生から手紙が届いた。〈なんでみかんなくなったの。わたしはあれがいちばんすきでした〉。鉛筆の字は、途中から大きくなっていた。賢司はそれを机の引き出しにしまった。

病院食の会社からの誘いには、週明けの朝までに答えることになっていた。給料は上がる。献立の裁量もある。妻の由紀は「好きにしたら」と言った。好きに、という言葉が、賢司にはいちばん難しかった。

ここを出るのは、子どもたちから逃げることだ。そう考えると、残る理由は立派に聞こえた。けれど本当は、残れば引き算を続ける言い訳が立ち、出れば昔の夢に戻る言い訳が立つ。どちらに傾けても、自分に都合のいい秤だった。

◇

週明けの朝、賢司は会社に断りの電話を入れた。それから、半年かけてまとめた表を抱えて市役所の会議室に向かった。来年度の給食費の単価を決める打ち合わせだった。食材ごとの値上がり率と、それを吸収するために削ったものの一覧。最後の列には、外した品目を並べた。冷凍みかんは一番下にあった。物価に追いつく改定を、数字で押し切るつもりだった。

財政課の若い係長は、表を最後までめくってから顔を上げた。

「よくできてますね。先週の金曜、日銀が、物価は二パーセントの目標にほぼ届いたと発表しました。改定率は、その二パーセントで行きます」

「果物は一割以上、上がってます」

「ええ。でも、この表のとおり工夫すれば収まるんですよね」係長は最後の列を指でなぞった。「この削り方、来年度から市の標準献立の考え方にさせてください。ほかの調理場にも配りたいんです」

会議室の時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。子どもたちのために積み上げた数字は、子どもたちにはこれ以上何もいらないことの証明として、きれいに受け取られていた。

帰りの車の中で、賢司は断ったばかりの会社の番号を履歴に探した。指は止まったままだった。今かけ直せば、出ていく理由は、また立派に聞こえるだろう。それがわかっていて、エンジンをかけずに座っていた。

◇

翌週、市の標準献立が各校に配られた。表紙の作成者の欄には、賢司の名前が印字されていた。

その夜、賢司は台所に粉の山を作り、卵を落とした。指で井戸の縁を崩し、打ちたいように打った。茹で上がった麺は、昔と同じように鍋の中で跳ねた。由紀が一本つまんで「おいしい」と言った。賢司は頷き、残りを黙って食べた。

来年の冬、冷凍みかんは、この市のどの給食にも出ない。

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ニュースと選定

題材は「日銀 基調的な物価上昇率“2%目標に事実上到達” 2013年の導入以来初 政策金利は1.25%据え置き」。 日銀は10月30日の金融政策決定会合で政策金利を1.25%程度に据え置き。同日公表の展望レポートで、一時的要因を除く「基調的な物価上昇率」が2%の物価安定目標と「概ね整合的な水準」になったとの見解を示し、2013年の目標導入以来初めて事実上の到達となった。高田委員は1.5%への利上げを提案し否決。ETF売却ペースの加速も決定。今後は物価の上振れを防ぎ2%程度で安定させるため利上げを続ける方針。 日本経済新聞「日銀、物価2%到達を表明『目標と整合的な水準』 金利は据え置き決定」(2026-10-30)で同内容を確認(据え置き、高田委員の1.5%提案否決を含む)。一次情報として日本銀行「展望レポート」一覧に2026年10月30日付『2026年10月(基本的見解)』の掲載を確認(PDF本文は未読)。TBS速報(同日12:15配信)とも一致。配信日10/30を確認。

人物

堀之内 賢司(仮名)、46歳、静岡県の地方都市の学校給食センターで献立を作る管理栄養士(市職員)。妻と二人暮らし。値上がりで毎月献立を削る中、病院食の委託会社から献立責任者として誘われている。 【名前・年齢・職業】堀之内 賢司(仮名)、46歳。静岡県中部の地方都市にある市立学校給食センターの管理栄養士(市職員)。小中学校約4,000食分の献立作成と発注を担当して12年。 【家庭・生活】市立図書館でパート勤務する妻(44)と二人暮らし。子どもはいない。築30年の借家。母は隣県で一人暮らし。 【過去】大学を出てイタリア料理店で3年修業したが、腰を痛め、店の閉店もあって料理人を諦めた。その後栄養士の資格を取り直し、30代半ばで市に採用された。 【悩み・葛藤】一食あたりの給食費の単価はほとんど据え置きのまま、食材が毎月のように値上がりする。牛肉を豚に、豚を鶏に、果物を減らし、先月は冷凍みかんを献立から外した。ある小学3年生から「なんでみかんなくなったの」という手紙が届き、返事を書けずにいる。そこへ病院・介護施設の食事を受託する民間会社から、献立責任者として来ないかと誘いがあった。給与は上がる。残るか移るかで迷っている。 【喜び・希望】年に一度の「リクエスト献立」の日に残食がほぼゼロになること。週末に妻と行く朝市。休日に一人でパスタを打つ時間。 【言いにくい本音】削ることに慣れ、帳尻が合うと少し安心してしまう自分が怖い。子どもたちのために残るべきだと言いながら、本当はもっと自由に料理を作りたいという若い頃の未練で動きたいだけなのではないかと思っている。

三枚のカード

  • 過去:愚者(正位置)
  • 現在:正義(逆位置)
  • 未来:運命の輪(逆位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月31日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。