月夜の短編集

2026.10.30 / 科学

落款

星・正位置
過去 星・正位置
太陽・逆位置
現在 太陽・逆位置
審判・正位置
未来 審判・正位置

昭和の終わり近く、久雄は親方を亡くし、甲府の小さな印章店をひとりで引き継いだ。同じ冬に長男が生まれ、翌年の春には、取引先の工務店が二つ続けて潰れた。注文帳は白いページばかりになった。

その秋の朝、眠れずに二階の物干しへ出ると、盆地の向こうの山が、頂にだけ薄く白をかぶっていた。誰に見せるでもなく、久雄は店の大学ノートを一冊おろし、最初のページに定規で縦の線を引いた。左の欄に、自分が見た日。右の欄に、気象台が発表した日。

最初の行は、左が「10/9」、右が「10/10」だった。一日、勝った。久雄は誰もいない作業場で、少し笑った。

それから秋が来るたびに、一行ずつ増えた。一日早い年、二日遅い年、ぴたりと同じ年。ずれを見比べるのは、彫り上げた印影を拡大鏡で確かめるのに似ていた。一本の線もずらさない。それが久雄の仕事の誇りだった。

ただ一度だけ、左の欄に右の数字を写した年がある。手形の期日に追われ、毎朝銀行と問屋のあいだを自転車で走っていた秋だった。山を見上げる余裕などなかった。気づけば新聞に初冠雪の記事が出ていて、久雄はその晩、何でもない顔で、二つの欄に同じ「10/21」を書いた。誰にも言っていない。佳代子にも。

◇

今朝、久雄は三度、物干しに上がった。

山のあるはずの方角には灰色の雲が低く垂れて、裾も頂も見えなかった。三度目に下りてくると、茶の間のテレビが富士山の初冠雪を伝えていた。今年から気象台は人の目で見るのをやめ、レーダーや宇宙から届く数字で雪が積もったかどうかを判定するのだという。甲府からは、今朝は山が見えなかったはずだとも。

「見えんのに、降ったことになるのか」

久雄が言うと、佳代子は番茶を注ぎながら「降ったんでしょうよ」と言った。

昼前、東京の息子から電話があった。

「親父のノート、写真に撮らせてよ。ネットに上げたら、きっと面白がる人いるって。五十年分だろ」

「まだ四十何年だ」

「同じだよ」息子は笑った。「年末に帰ったとき撮るから、考えといて」

受話器を置いても、久雄は返事をした気がしなかった。七冊目のノートを開くと、今年の行が空いている。見ていない日を左に書けば、あの年と同じになる。書かなければ、欄は空いたまま冬が来る。久雄は鉛筆を持ったまま、しばらく動かなかった。

◇

夕刊の地域面に、気象台の小さな記事が載っていた。百三十年あまり続いた目視による初冠雪の観測は、昨年の秋で終わっていた。添えられた表の最後の行に、去年の日付があった。

久雄はノートをめくり戻した。去年の行。左に「10/22」、右に「10/23」。去年の自分は、いつもの鉛筆で、いつもと同じように書いていた。一日、勝った、と少し笑ったのも覚えている。

あれが、最後の行だった。

右の欄に数字を書き込む人は、もういない。比べる相手のいない欄に何を写しても、写さなくても、もう誰ともずれることはない。この帳面は去年の秋に、自分の知らないところで閉じていた。

久雄はしばらく、同じ「10/21」が二つ並ぶ行を見ていた。消しゴムで消せる鉛筆の字だった。二十年あまり、消さずにきた字だった。

それから立ち上がり、作業場の引き出しから自分の落款印を出した。店を閉めてから一度も使っていない、親方の形見の石に彫った小さな印だ。朱肉を叩き、去年の行の下に、ゆっくりと押した。

印を上げると、朱の四角が、紙に少し滲んで浮かんでいた。線は一本もずれていなかった。

「明日は晴れるって」

台所から佳代子が言った。

「そうか」

久雄はノートを開いたまま、朱が乾くのを待った。

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ニュースと選定

題材は「富士山が初冠雪 観測方法、目視からデータ解析に 過去2番目の遅さ」。 気象庁は10月30日朝、富士山の初冠雪を発表した。午前8時に山頂付近で1センチ以上の積雪を解析、山頂気温はマイナス6.3度。初冠雪は1894年から132年間、甲府地方気象台の職員が目視で観測してきたが、今季からアメダス・気象レーダー・ひまわり等のデータで計算する「解析積雪深」で自動判定する方法に切り替わった。単純比較はできないが平年(10月2日)より28日、昨年(10月23日)より7日遅い。今朝は甲府の気象台周辺から富士山が見通せず、従来の目視では発表がなかった可能性もある(ウェザーニュース)。 一次情報:気象庁「初冠雪の記録等」ページで富士山の初冠雪日2026年10月30日、2027寒候年から解析積雪深による提供・目視とは単純比較不可と確認。甲府地方気象台の資料(初冠雪日一覧PDF)に『2025年(2026寒候年)をもって職員による目視観測を終了』と明記。別系統報道:NHK(10:33)、朝日新聞(10:14)、日本経済新聞/共同(10:39)、FNN/テレビ静岡、SBS、ウェザーニュースが同日報道。配信日はいずれも2026年10月30日で確認。

人物

樋口 久雄(仮名)、74歳、甲府市の元印章(はんこ)彫り職人。5年前に店を閉め、妻と二人暮らし。約50年、毎朝二階の物干しから富士山を見て初冠雪の日を大学ノートに記録してきた。 名前:樋口 久雄(ひぐち ひさお・仮名)、74歳、男性。 職業:元印章彫り職人。甲府市内の自宅兼店舗で40年以上、手彫りの実印や銀行印を彫ってきた。押印の見直しや注文の減少で5年前に店を閉めた。今は町内の書道教室で月に二度、篆刻を教えている。 家庭環境・生活:妻の佳代子(71)と古い木造二階建てで二人暮らし。長男(45)は東京でシステム関係の会社勤め、妻子あり。孫娘は小学5年生。年金と細々した篆刻の礼金で暮らす。 過去の経験:長男が生まれた翌年の秋から、毎朝二階の物干し台で富士山を見て、初めて雪をかぶったと思う日を大学ノートに書き付けてきた(ノートは現在7冊目)。気象台の発表日も横に小さく書き添え、ずれを見比べるのがひそかな楽しみだった。印章の仕事で『一本の線のずれも許さない』ことを誇りにしてきた。 今の悩み・葛藤:今朝は甲府から雲で富士山が見えなかったのに、初冠雪の発表が出た。気象台も目視をやめたと知り、自分のノートの意味が揺らいでいる。長男が『ノートを写真で残してネットで皆に見てもらおう』と言ってくれて嬉しい反面、返事ができない。 喜び・楽しみ・希望:朝の物干し台で妻と飲む番茶。孫娘が電話で『今年はもう白くなった?』と聞いてくること。ノートの最初のページの、若い自分の固い字。 他人に言いにくい本音:二十数年前、店の資金繰りに追われて毎朝山を見る余裕がなかった年が一度だけあり、そのときは見ていないのに気象台の発表日をそのまま自分の欄に書き写した。誰にも言っていない。ノートが人目に触れれば、その一行を自分だけは知っている。

三枚のカード

  • 過去:星(正位置)
  • 現在:太陽(逆位置)
  • 未来:審判(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月30日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。