高校二年の秋、颯太は初めて父の気球を追う軽トラの助手席に乗った。
「上を見るな。下を見ろ」
ハンドルを握る父は、田んぼの野焼きの煙を顎で指した。煙が倒れる向き、電線の揺れ、川面のさざなみ。気球は風に乗るしかない。だから風の行き先を地上で先に読んだ者が、着陸地点に先に着く。
颯太はそれを誰にも教わらずに覚えた、と今でも思っている。気づけば、無線より早く、気球が降りる畑の見当がついた。見当をつけたことは誰にも言わなかった。言わなくても、着いてみればそこに気球が降りてきた。
去年の大会の三日目、その見当が外れかけた。突風で、父の気球が高圧線の方へ流された。颯太は一人だけ先に気づいて、無線に叫んだ。
「親父、上げろ。線がある」
バーナーの音が一度長く鳴り、籠は電線の上をかすめて、刈り取りの済んだ田に落ちた。父は籠から這い出すと、颯太の顔を見ずに言った。
「もう降りる」
◇
今年の開幕の朝は、雨だった。
嘉瀬川の河川敷には、十五の国と地域から百二十ほどの気球が集まっていた。けれど夜明けのブリーフィングで、朝の競技は中止と告げられた。しぼんだままの気球が、濡れた芝の上でいくつも眠っていた。
颯太は今年、ポーランドから来たマレクのチームを手伝っている。父の口利きだった。マレクは大柄で、日本語は「ありがとう」と「だいじょうぶ」しか知らない。それでも、雨の中で傘もささずに笑い、軽トラの荷台に腰かけて、仲間とスープの缶を回した。
「ソウタ、だいじょうぶ」
缶が颯太の手に回ってきた。熱かった。マレクたちの笑い声は、灰色の空の下でそこだけ明るかった。
昼前、会社の後輩から通知が来た。〈先輩のチーム、来年は先輩が飛ばすんすよね。楽しみにしてます〉。颯太は返事を打てずに画面を伏せた。チームの誰もがそう言う。古賀さんも、母の友達も。父だけが、何も言わない。
雨は止まなかった。運転席に戻ってエンジンをかけると、カーラジオから地元局の大会特番が流れた。飛べない時間を埋めるように、開幕前に録った出場チームの紹介が、一つずつ流れていく。
「続いては、地元佐賀から、三十年近く出場している江口チームです」
颯太はワイパーを止めた。
録音の父の声は、家で聞くより少し硬かった。
「今年からパイロットは古賀に譲りました。来年も再来年も古賀です」
「息子さんが継がれるという噂も聞きますが」
短い沈黙のあと、父は笑った。颯太が聞いたことのない種類の笑い方だった。
「あいつは追う方の人間です。去年、上におった私より先に、線に気づいた。上からは見えんもんが、あいつには見える。そういう目は、籠に乗せたらもったいない。春の総会で、もうみんなに言うてあります」
春の総会の晩、颯太は夜勤だった。
「チームのみんなは、からかっとるだけですよ。本人にはまだ言うとらんですけど」
アナウンサーが笑い、曲に移った。
颯太はしばらく、フロントガラスを流れる雨を見ていた。半年、ずっと胸の中で言い出す練習をしてきた。父の三十年を否定しないように、がっかりさせないように、どの順番で言えばいいのか。その答えは、自分が夜勤でホテルのフロントに立っていた晩に、もう出ていた。
助手席の窓を、マレクが叩いた。指を空に向けている。
雲の切れ目から、薄い日が河川敷に落ちていた。午後は飛べるかもしれない、と場内放送が告げていた。マレクのチームが、濡れた芝の上で球皮を広げはじめる。
颯太は伏せていたスマホを裏返した。後輩への返事は打たず、地図アプリを開いた。風は北西。川沿いの竹やぶが、南東へ少し倒れている。
「マレク」と颯太は窓を下ろした。「たぶん、東の、大きなクリークの手前」
マレクは意味が分からないまま親指を立て、「だいじょうぶ」と言った。
最初のバーナーが鳴った。颯太は空を見ずに、ギアを入れた。