月夜の短編集

2026.10.30 / 地域

地上の目

女教皇・正位置
過去 女教皇・正位置
太陽・正位置
現在 太陽・正位置
審判・正位置
未来 審判・正位置

高校二年の秋、颯太は初めて父の気球を追う軽トラの助手席に乗った。

「上を見るな。下を見ろ」

ハンドルを握る父は、田んぼの野焼きの煙を顎で指した。煙が倒れる向き、電線の揺れ、川面のさざなみ。気球は風に乗るしかない。だから風の行き先を地上で先に読んだ者が、着陸地点に先に着く。

颯太はそれを誰にも教わらずに覚えた、と今でも思っている。気づけば、無線より早く、気球が降りる畑の見当がついた。見当をつけたことは誰にも言わなかった。言わなくても、着いてみればそこに気球が降りてきた。

去年の大会の三日目、その見当が外れかけた。突風で、父の気球が高圧線の方へ流された。颯太は一人だけ先に気づいて、無線に叫んだ。

「親父、上げろ。線がある」

バーナーの音が一度長く鳴り、籠は電線の上をかすめて、刈り取りの済んだ田に落ちた。父は籠から這い出すと、颯太の顔を見ずに言った。

「もう降りる」

◇

今年の開幕の朝は、雨だった。

嘉瀬川の河川敷には、十五の国と地域から百二十ほどの気球が集まっていた。けれど夜明けのブリーフィングで、朝の競技は中止と告げられた。しぼんだままの気球が、濡れた芝の上でいくつも眠っていた。

颯太は今年、ポーランドから来たマレクのチームを手伝っている。父の口利きだった。マレクは大柄で、日本語は「ありがとう」と「だいじょうぶ」しか知らない。それでも、雨の中で傘もささずに笑い、軽トラの荷台に腰かけて、仲間とスープの缶を回した。

「ソウタ、だいじょうぶ」

缶が颯太の手に回ってきた。熱かった。マレクたちの笑い声は、灰色の空の下でそこだけ明るかった。

昼前、会社の後輩から通知が来た。〈先輩のチーム、来年は先輩が飛ばすんすよね。楽しみにしてます〉。颯太は返事を打てずに画面を伏せた。チームの誰もがそう言う。古賀さんも、母の友達も。父だけが、何も言わない。

雨は止まなかった。運転席に戻ってエンジンをかけると、カーラジオから地元局の大会特番が流れた。飛べない時間を埋めるように、開幕前に録った出場チームの紹介が、一つずつ流れていく。

「続いては、地元佐賀から、三十年近く出場している江口チームです」

颯太はワイパーを止めた。

録音の父の声は、家で聞くより少し硬かった。

「今年からパイロットは古賀に譲りました。来年も再来年も古賀です」

「息子さんが継がれるという噂も聞きますが」

短い沈黙のあと、父は笑った。颯太が聞いたことのない種類の笑い方だった。

「あいつは追う方の人間です。去年、上におった私より先に、線に気づいた。上からは見えんもんが、あいつには見える。そういう目は、籠に乗せたらもったいない。春の総会で、もうみんなに言うてあります」

春の総会の晩、颯太は夜勤だった。

「チームのみんなは、からかっとるだけですよ。本人にはまだ言うとらんですけど」

アナウンサーが笑い、曲に移った。

颯太はしばらく、フロントガラスを流れる雨を見ていた。半年、ずっと胸の中で言い出す練習をしてきた。父の三十年を否定しないように、がっかりさせないように、どの順番で言えばいいのか。その答えは、自分が夜勤でホテルのフロントに立っていた晩に、もう出ていた。

助手席の窓を、マレクが叩いた。指を空に向けている。

雲の切れ目から、薄い日が河川敷に落ちていた。午後は飛べるかもしれない、と場内放送が告げていた。マレクのチームが、濡れた芝の上で球皮を広げはじめる。

颯太は伏せていたスマホを裏返した。後輩への返事は打たず、地図アプリを開いた。風は北西。川沿いの竹やぶが、南東へ少し倒れている。

「マレク」と颯太は窓を下ろした。「たぶん、東の、大きなクリークの手前」

マレクは意味が分からないまま親指を立て、「だいじょうぶ」と言った。

最初のバーナーが鳴った。颯太は空を見ずに、ギアを入れた。

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ニュースと選定

題材は「アジア最大級、熱気球大会が開幕 佐賀市、秋の風物詩」。 アジア最大級の熱気球大会「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」が10月30日、佐賀市の嘉瀬川河川敷で開幕。米国やポーランドなど15の国と地域から約120機が集まった。初日は雨で始まった。競技は11月3日までの5日間。 共同通信記事(琉球新報デジタル、2026/10/30 07:33 JST)で配信日を確認。一次情報として大会公式サイト(sibf.jp/2026/outline)で、競技期間2026年10月30日〜11月3日・参加123機(うち海外25機)を確認。報道の「約120機」と整合。報道の「15の国と地域」は公式の数え方と完全には一致を確認できず(公式は競技部門の海外15機)。Yahoo!ニュース版は取得不可で本文未確認。

人物

江口 颯太(仮名)、24歳、佐賀市内のビジネスホテルのフロント係。実家暮らし。高校の頃から父の気球チームでチェイスクルー(追跡・回収係)。父は昨年の着陸トラブルで引退し、操縦資格を取って気球を継ぐよう期待されているが、本当は空が少し怖い。 名前:江口 颯太(仮名)、24歳、男性。佐賀市内のビジネスホテルでフロント係(夜勤あり)。 家庭・生活:嘉瀬川に近い実家で両親と暮らす。父(56)は30年近く気球を飛ばしてきた地元チームのパイロット、母はチームの記録・炊き出し係。姉は福岡で結婚。 過去:小学生の頃から毎年大会を見て育ち、高校から父の気球のチェイスクルーとして軽トラで気球を追い、着陸地点の農家に頭を下げて回ってきた。昨年の大会で父の気球が強風で電線近くに降りかけ、地上から無線で叫んだ記憶がある。父はその後、引退を決めた。 今の悩み:チームの若手は自分だけで、皆が「次は颯太が操縦を」と当然のように言う。今年は別チームの気球を手伝いながら、資格講習の申込書を書けずにいる。 喜び・希望:夜明けの河川敷で気球が膨らむ音、地上から追いかけて着陸地点で最初に駆け寄る瞬間が好き。地図を読み風を読んで、誰より早く着陸地点に着くのが密かな誇り。 言いにくい本音:空に上がるのが少し怖い。父のように上で決める人ではなく、下で追いかける人でいたい。それを言うと父の30年を否定する気がしている。

三枚のカード

  • 過去:女教皇(正位置)
  • 現在:太陽(正位置)
  • 未来:審判(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月30日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。