月夜の短編集

2026.10.29 / 国際

同じ寒さ

正義・逆位置
過去 正義・逆位置
塔・正位置
現在 塔・正位置
太陽・正位置
未来 太陽・正位置

三十年前、律子がこの港町に着いた日も、雨は横から降っていた。

ジムの母の台所で、律子が最初に覚えた英語は「やかん」だった。湯を沸かし、紅茶を運ぶ。義母が寝たきりになってからの六年、律子は日に何度もやかんを火にかけた。

同じ六年のあいだに、日本の母が倒れ、父が倒れた。看たのは五つ下の妹の佐和子だった。律子が成田に着いたのは、どちらのときも通夜の翌日だった。

「いいのよ。姉さんには姉さんの家があるんだから」

佐和子は一度も責めなかった。責められないぶん、律子の中の秤は傾いたまま戻らなかった。それから毎年、クリスマスの前になると、律子は紅茶の缶とビスケットを箱に詰めて妹へ送る。中身より送料のほうが高くつく箱を、三十年近く。

◇

ジムが死んで三年目の秋、ボイラーが止まった。

予算発表の晩だった。台所のラジオで財務大臣が家計のエネルギー支援を読み上げている最中に、壁の奥で何かが大きく鳴り、それきり床下の配管が冷えはじめた。

翌朝来た修理屋は、懐中電灯で中をのぞいて首を振った。

「部品がもう出ない。替えるなら三千ポンドは見ておいて」

修理屋が帰ると、律子はコートを着たまま台所の椅子に座った。息が白かった。請求書を前に毎晩していた計算も、これでは意味がない。ジムが「あと二十年はもつ」と言っては叩いていた鉄の箱が、この家の何もかもを道連れにして黙りこんだように思えた。

意地を張るのも、ここまでだ。

律子は家の売値を調べ、成田行きの片道の運賃を調べ、それから妹に送るメールの一行目を打った。〈帰ることにしました〉。打っては消し、また打った。

◇

その夜十一時過ぎ、電話が鳴った。日本はもう朝の八時のはずだった。

「ニュースで見たの。イギリスで二千万世帯に給付金って」佐和子はいつもより早口だった。「姉さんの家、もらえるの? AからDまでの家なんでしょう。あの家、Bよね」

律子はすぐには答えられなかった。家の税の区分など、妹に話したことは一度もない。

「……どうして知ってるの」

「調べたのよ」

佐和子はしばらく黙った。電話の向こうで椅子を引く音がした。

「町役場の英語のページ、辞書を引きながら全部読んだの。バスの時刻表も。港の天気は毎日見てる。去年から英会話にも通ってるのよ。笑わないでね、この歳で」

「佐和子」

「帰ってきてって言ってたのはね」妹の声が少し揺れた。「行ってもいいかって、聞けなかったからよ。うちの人がいなくなってから、私もずっと一人なの。姉さんに、来られても困るって言われるのが怖くて、先に呼んでたの」

律子は、火の消えた台所で受話器を握り直した。この冬をどこで越すか、ずっと自分ひとりの問題だと思っていた。寒いのは自分のほうだと。

「こっちの冬は、そっちとは違うわよ」

ようやく、それだけ言った。

「知ってる。毎日見てるもの」佐和子は笑い、それから小さくくしゃみをした。「でもね、こっちだって寒いの。今朝は今年いちばんの冷え込みで、暖房をつけようか、さっきからずっと迷ってたところ」

律子は思わず笑った。笑いながら、目の奥が熱くなった。三十年近く送り続けた紅茶の缶のことを思った。あれで何かを返しているつもりだった。秤の向こうの皿に載っていたのが何だったのか、律子は一度も確かめなかった。

「つけなさい」と律子は言った。「暖房。今すぐ」

開いたままのノートパソコンの画面で、〈帰ることにしました〉の一行が光っていた。律子はそれを消さずに画面を閉じ、コートの前をかき合わせた。自分の台所には、もうつけるものが何もない。受話器に耳を押し当て、遠い部屋で妹がスイッチを入れる小さな音を、律子は待った。

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ニュースと選定

題材は「イギリス 2000万世帯に給付金 エネルギー価格対策重視の予算案」。 英国のバーナム政権が初の予算案を発表(ヒーリー財務相が10月28日に議会で提示)。中東情勢によるエネルギー価格上昇を受け、2027年にイングランドのカウンシル税A〜D帯の最大2000万世帯へ100ポンドの家計エネルギー給付、電気料金の付加価値税の一時引き下げ延長、燃料税引き下げの延長などを盛り込んだ。財源は銀行への上乗せ法人税の引き上げや賭博税など。 一次情報:英財務省・GOV.UK「Budget 2026: Breathing space for today, hope for the future」(2026-10-28)で、2027年に最大2000万世帯(イングランドのA〜D帯)へ£100のHousehold Energy Payment、電気料金VAT引き下げの2027年7月1日までの延長、財源として銀行上乗せ税3%→6%を確認。別系統:ロイター(10/29 6:31、約2000万世帯に100ポンド、費用26億ポンド)、日本経済新聞(10/29 2:03)、京都新聞/共同(10/29 6:55)。NHK記事の配信日は2026年10月29日 8:08で今日。

人物

坂巻 律子(仮名)、61歳、イングランド北部の港町に住む。英国人の夫と渡英して約30年、夫は3年前に他界し古いテラスハウスで一人暮らし。チャリティショップで週3日勤務。日本の妹から帰国を勧められ迷う。 名前:坂巻 律子(仮名)、61歳。職業:地元のチャリティショップ(古着・古本の店)で週3日働く。以前は日本語の個人教師や翻訳の手伝いをしていた。 家庭環境・生活:31歳で英国人の夫(元フェリー整備士)と結婚して渡英、イングランド北部の港町の古いテラスハウスに住む。子どもはいない。夫は3年前に病気で亡くなり一人暮らし。夫の年金の一部と自分の収入で暮らす。家は隙間風が多く、光熱費の請求書がこの2年で目に見えて重くなった。 過去の経験:渡英当初は言葉も天気もなじめず、何度も帰ろうと思った。夫の母の介護を最期まで手伝い、町の人に「リツ」と呼ばれるようになった。日本の両親の死に目にはどちらも間に合わなかった。 悩み・葛藤:東京近郊に住む5歳下の妹から「一人で寒いところで年を取らないで、帰ってきて」と繰り返し言われる。妹の家の近くに部屋を借りる話も出ている。家を売ればまとまったお金にはなる。 喜び・楽しみ・希望:土曜日の町の合唱団(アルトパート)、隣家の子どもたちに折り紙を教えること、夫が植えた裏庭のバラ。来年の春の合唱団のコンサートでソロの一節を任されるかもしれない。 言いにくい本音:日本に帰っても、もう自分を知っている人はいないし、日本語の早口の会話に疲れてしまう自分が怖い。両親の死に目に会えなかった後ろめたさから、妹に頼ること自体が苦しい。一方で、この町に残るのは夫の思い出にしがみついているだけではないかとも思う。

三枚のカード

  • 過去:正義(逆位置)
  • 現在:塔(正位置)
  • 未来:太陽(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月29日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。