三十年前、律子がこの港町に着いた日も、雨は横から降っていた。
ジムの母の台所で、律子が最初に覚えた英語は「やかん」だった。湯を沸かし、紅茶を運ぶ。義母が寝たきりになってからの六年、律子は日に何度もやかんを火にかけた。
同じ六年のあいだに、日本の母が倒れ、父が倒れた。看たのは五つ下の妹の佐和子だった。律子が成田に着いたのは、どちらのときも通夜の翌日だった。
「いいのよ。姉さんには姉さんの家があるんだから」
佐和子は一度も責めなかった。責められないぶん、律子の中の秤は傾いたまま戻らなかった。それから毎年、クリスマスの前になると、律子は紅茶の缶とビスケットを箱に詰めて妹へ送る。中身より送料のほうが高くつく箱を、三十年近く。
◇
ジムが死んで三年目の秋、ボイラーが止まった。
予算発表の晩だった。台所のラジオで財務大臣が家計のエネルギー支援を読み上げている最中に、壁の奥で何かが大きく鳴り、それきり床下の配管が冷えはじめた。
翌朝来た修理屋は、懐中電灯で中をのぞいて首を振った。
「部品がもう出ない。替えるなら三千ポンドは見ておいて」
修理屋が帰ると、律子はコートを着たまま台所の椅子に座った。息が白かった。請求書を前に毎晩していた計算も、これでは意味がない。ジムが「あと二十年はもつ」と言っては叩いていた鉄の箱が、この家の何もかもを道連れにして黙りこんだように思えた。
意地を張るのも、ここまでだ。
律子は家の売値を調べ、成田行きの片道の運賃を調べ、それから妹に送るメールの一行目を打った。〈帰ることにしました〉。打っては消し、また打った。
◇
その夜十一時過ぎ、電話が鳴った。日本はもう朝の八時のはずだった。
「ニュースで見たの。イギリスで二千万世帯に給付金って」佐和子はいつもより早口だった。「姉さんの家、もらえるの? AからDまでの家なんでしょう。あの家、Bよね」
律子はすぐには答えられなかった。家の税の区分など、妹に話したことは一度もない。
「……どうして知ってるの」
「調べたのよ」
佐和子はしばらく黙った。電話の向こうで椅子を引く音がした。
「町役場の英語のページ、辞書を引きながら全部読んだの。バスの時刻表も。港の天気は毎日見てる。去年から英会話にも通ってるのよ。笑わないでね、この歳で」
「佐和子」
「帰ってきてって言ってたのはね」妹の声が少し揺れた。「行ってもいいかって、聞けなかったからよ。うちの人がいなくなってから、私もずっと一人なの。姉さんに、来られても困るって言われるのが怖くて、先に呼んでたの」
律子は、火の消えた台所で受話器を握り直した。この冬をどこで越すか、ずっと自分ひとりの問題だと思っていた。寒いのは自分のほうだと。
「こっちの冬は、そっちとは違うわよ」
ようやく、それだけ言った。
「知ってる。毎日見てるもの」佐和子は笑い、それから小さくくしゃみをした。「でもね、こっちだって寒いの。今朝は今年いちばんの冷え込みで、暖房をつけようか、さっきからずっと迷ってたところ」
律子は思わず笑った。笑いながら、目の奥が熱くなった。三十年近く送り続けた紅茶の缶のことを思った。あれで何かを返しているつもりだった。秤の向こうの皿に載っていたのが何だったのか、律子は一度も確かめなかった。
「つけなさい」と律子は言った。「暖房。今すぐ」
開いたままのノートパソコンの画面で、〈帰ることにしました〉の一行が光っていた。律子はそれを消さずに画面を閉じ、コートの前をかき合わせた。自分の台所には、もうつけるものが何もない。受話器に耳を押し当て、遠い部屋で妹がスイッチを入れる小さな音を、律子は待った。