府の南の端の町にあった藤谷書店では、火曜の夕方になると、ランドセルが走ってきた。
大学の三年間、澄香はその店のレジに立った。少年誌の束が届くのは火曜の朝で、店主の藤谷さんは老眼鏡を額に上げ、カッターでPPバンドを切る役を澄香に譲った。バンドが弾ける乾いた音。インクの匂い。四時を過ぎると、店の前の坂を子どもたちが駆け下りてくる。
卒業の春、澄香は閉店の貼り紙を書いた。藤谷さんはその背中に言った。
「澄香ちゃん、この店、やってみる気ぃないか」
澄香は聞こえなかったふりをして、セロハンテープを長めに切った。その春のうちに、東京の会社にいた。一年で辞めて関西に戻ったときも、藤谷さんには連絡しなかった。京都の書店で雑誌の担当を希望したのは、たぶん、あの日の返事の代わりのつもりだった。
◇
木曜の朝、開店前の事務所で、店長が新聞を畳んだ。
「来年の春から、京都も東京から一日遅れになるかもしれん。取次がそう言うてきとる」
店長は取次から届いた地区別の発売日の表をコピーし、休憩室の壁に貼った。京都市の中心部の欄に、赤ペンで「+1」と書き足して。
昼過ぎ、常連の老人が雑誌を一冊買いながら言った。「一日くらい、待つがな」。夕方、週明けごとに学校帰りに駆け込んでくる中学生が、その話を聞いて肩をすくめた。
「ほな、スマホで読むわ」
澄香は笑ってレシートを渡し、その手がしばらく冷たかった。沈む船、という言葉が胸の底で鳴った。
その夜、澄香は律に東京の話をした。東京の出版社の電子コミックの部署、先輩の誘い、来春の正社員の打診。律は四条の美容室から帰ったばかりで、ハサミのケースを棚に置き、黙って最後まで聞いた。
「で、澄香はどっちが嬉しいん」
「嬉しいとか、そういうことやなくて」
「店の話するとき、澄香、いっつも誰かに謝ってるみたいな顔すんねん」
澄香は答えられなかった。答えられないまま、二人で冷めた麦茶を飲んだ。
◇
翌朝、澄香はいつもより早く店に入り、休憩室の壁の前に立った。
京都市の中心部。大阪市。それから、指で表を下へたどった。府の南の端。あの町の名前の横の、今の発売日の欄。
「+1」。
赤ペンではなかった。印刷の、黒い字だった。
澄香は、もう一度読んだ。あの町では、週明けの雑誌はずっと火曜に届いていた。東京から一日遅れて。坂を駆け下りてきたあの子どもたちは、一日遅れの束を目指して走っていたのだ。藤谷さんは、そんなことを一度も口にしなかった。誰も気にしていなかった。澄香自身も、三年間、気づきもしなかった。
あの店は、遅れたから閉じたのではなかった。そして自分が好きだったものは、東京と同じ日に並ぶことではなかった。
沈む船から降りるのが後ろめたい。ずっとそう思ってきた。けれど、自分が乗っていると思っていた船は、最初からそんな形をしていなかった。後ろめたさの正体は、店を捨てることではなく、あの日、藤谷さんの言葉に嬉しくなった自分から目をそらしたことのほうだった。
東の窓から日が差して、床に積まれた束を照らした。澄香はカッターを当てた。バンドが弾け、乾いた音がした。
週明けには、あの中学生がまた走ってくる。春になれば、火曜に走ってくるだろう。たぶん、同じ顔で。
澄香は声に出して笑い、それから雑誌を棚に並べはじめた。東京の話は、今夜、律にもう一度しようと思った。今度は、火曜の子どもたちの話から。