十年前の雨の晩、千尋はこの店のカウンターの端で、注文した一枚に箸をつけられずにいた。ホテルの厨房を辞めて三日目だった。
親方は何も聞かず、鉄板の向こうからヘラを一本、柄をこちらに向けて差し出した。
「焼いてみいや」
一枚目は、裏返すときに崩れた。キャベツが鉄板じゅうに散って、焦げる匂いが立った。親方は笑いもせずに言った。
「もう一枚」
呼ばれた、と思った。あの晩から千尋は、同じ鉄板の前に立っている。
◇
木曜の朝、仕込みのあいだ点けっぱなしのテレビが、プロ野球の宣言期間がきょうから始まると伝えた。地元の球団では、チームの柱になってきた三人が、そろって初めて権利を手にしている。
昼どきには、常連たちがその話でもちきりになった。
「出ていくで、ありゃあ。三人とも」
「恩知らずよのう」
奥で千尋はキャベツを刻んでいた。大阪の会社には、今週いっぱいで返事をすると言ってある。新しい店を一から任せる、ソースも焼き方も好きにしていい、と。冷蔵庫の隅には、親方に黙って試している自分のソースの小瓶が、二本並んでいる。
鉄板の前で、親方がヘラを止めた。
「出ていくもんを恩知らずじゃ言うたら、そいつがここで投げてきた十年が嘘になる。行かしちゃれ」
ちょうど換気扇が唸りを上げた。千尋に届いたのは、その切れ目の「恩知らず」という一語だけだった。
包丁を持つ手が冷えた。親方の背中は、腰をかばって少し右に傾いている。あの背中に、自分は何を言おうとしていたのか。
テレビの中で、解説者が続けた。
「球団は、宣言したうえでの残留も認める方針です」
千尋は、その言葉を胸の中で二度繰り返した。宣言して、残る。言うだけ言って、どこへも行かない。それなら、恩も筋も、両方守れる気がした。
◇
暖簾を下ろしたあと、親方は鉄板に油を引いて、布で円を描くように拭いていた。千尋はその横に立った。
「親方。大阪の店から、来んかと言われとります」
布が止まった。
「……でも、残ります」千尋は笑ってみせた。「宣言残留です」
親方はしばらく鉄板を見ていた。拭き跡の油が、蛍光灯の光をゆっくり滑っていく。
「ほうか」
それから、もう一度言った。
「ほうか。そりゃあ、ありがたい」
親方は布をたたみ、冷蔵庫を開けて、隅の小瓶を一本取り出した。蓋を開けて匂いをかぎ、何か言いかけて、黙って元の場所に戻した。
「ソースは、うちのでええ」
そう言ってから、親方は首を振った。
「いや……ええんじゃ」
何が「ええ」のか、千尋は聞かなかった。聞けば、何かが崩れる気がした。
テレビは夜のニュースで、また宣言期間の話をしていた。期限まで、まだ十日ある。三人はまだ、誰も答えを出していない。
「あいつら、残るんかのう」
親方が画面を見たまま言った。
「残ったら、ええですね」
千尋も画面を見たまま答えた。
「……ほうじゃのう」
親方がテレビを消すと、店の中は換気扇の音だけになった。火を落とした鉄板が、ちりちりと小さく鳴りながら、少しずつ冷えていった。