月夜の短編集

2026.10.29 / その他

宣言残留

審判・正位置
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未来 星・逆位置

十年前の雨の晩、千尋はこの店のカウンターの端で、注文した一枚に箸をつけられずにいた。ホテルの厨房を辞めて三日目だった。

親方は何も聞かず、鉄板の向こうからヘラを一本、柄をこちらに向けて差し出した。

「焼いてみいや」

一枚目は、裏返すときに崩れた。キャベツが鉄板じゅうに散って、焦げる匂いが立った。親方は笑いもせずに言った。

「もう一枚」

呼ばれた、と思った。あの晩から千尋は、同じ鉄板の前に立っている。

◇

木曜の朝、仕込みのあいだ点けっぱなしのテレビが、プロ野球の宣言期間がきょうから始まると伝えた。地元の球団では、チームの柱になってきた三人が、そろって初めて権利を手にしている。

昼どきには、常連たちがその話でもちきりになった。

「出ていくで、ありゃあ。三人とも」

「恩知らずよのう」

奥で千尋はキャベツを刻んでいた。大阪の会社には、今週いっぱいで返事をすると言ってある。新しい店を一から任せる、ソースも焼き方も好きにしていい、と。冷蔵庫の隅には、親方に黙って試している自分のソースの小瓶が、二本並んでいる。

鉄板の前で、親方がヘラを止めた。

「出ていくもんを恩知らずじゃ言うたら、そいつがここで投げてきた十年が嘘になる。行かしちゃれ」

ちょうど換気扇が唸りを上げた。千尋に届いたのは、その切れ目の「恩知らず」という一語だけだった。

包丁を持つ手が冷えた。親方の背中は、腰をかばって少し右に傾いている。あの背中に、自分は何を言おうとしていたのか。

テレビの中で、解説者が続けた。

「球団は、宣言したうえでの残留も認める方針です」

千尋は、その言葉を胸の中で二度繰り返した。宣言して、残る。言うだけ言って、どこへも行かない。それなら、恩も筋も、両方守れる気がした。

◇

暖簾を下ろしたあと、親方は鉄板に油を引いて、布で円を描くように拭いていた。千尋はその横に立った。

「親方。大阪の店から、来んかと言われとります」

布が止まった。

「……でも、残ります」千尋は笑ってみせた。「宣言残留です」

親方はしばらく鉄板を見ていた。拭き跡の油が、蛍光灯の光をゆっくり滑っていく。

「ほうか」

それから、もう一度言った。

「ほうか。そりゃあ、ありがたい」

親方は布をたたみ、冷蔵庫を開けて、隅の小瓶を一本取り出した。蓋を開けて匂いをかぎ、何か言いかけて、黙って元の場所に戻した。

「ソースは、うちのでええ」

そう言ってから、親方は首を振った。

「いや……ええんじゃ」

何が「ええ」のか、千尋は聞かなかった。聞けば、何かが崩れる気がした。

テレビは夜のニュースで、また宣言期間の話をしていた。期限まで、まだ十日ある。三人はまだ、誰も答えを出していない。

「あいつら、残るんかのう」

親方が画面を見たまま言った。

「残ったら、ええですね」

千尋も画面を見たまま答えた。

「……ほうじゃのう」

親方がテレビを消すと、店の中は換気扇の音だけになった。火を落とした鉄板が、ちりちりと小さく鳴りながら、少しずつ冷えていった。

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ニュースと選定

題材は「プロ野球 きょうからFA宣言期間 広島3主力選手の去就に注目」。 日本シリーズ終了を受け、10月29日からFA権取得選手が権利行使を宣言できる期間が始まった。土日祝を除く7日以内(期限11月9日)に所属球団へ意思を伝える。今季は広島の床田寛樹・森下暢仁両投手と坂倉将吾捕手の主力3人が新たに国内FA権を取得し、去就が注目される。広島球団は宣言残留を認める方針。 NHK(10/29 5:33)の記事に加え、カープ情報ブログ『安芸の者がゆく』(10/29)が宣言期間開始・期限11/9を報道。3選手の国内FA権取得はNPB公式『2026年度 フリーエージェント有資格選手』公示(10/19公示)で確認。広島の宣言残留容認方針は時事通信(10/15)。配信日が今日(10/29)であることを確認済み。

人物

宮原 千尋(仮名)、34歳、広島市内の老舗お好み焼き店で10年働く焼き手。独身・一人暮らし。親方夫婦から跡継ぎを期待される一方、大阪の新店から店長として誘われている。 名前:宮原 千尋(みやはら ちひろ・仮名)/34歳/広島市内の路地にある創業40年のお好み焼き店の焼き手。 家庭環境・生活:島根の山あいの町出身。実家は弟夫婦が継ぎ、母と同居。本人は店から自転車で10分のアパートで一人暮らし。休みは週1日。 過去の経験:調理専門学校を出てホテルの厨房に入ったが、上下関係に疲れて2年で辞めた。落ち込んでいた24歳のとき客として入った今の店で、親方(70代)に『焼いてみるか』と言われ、そのまま住み込み同然で修業。親方夫婦に子どもはいない。 今の悩み:親方が腰を悪くして最近は鉄板の前に立つ時間が減り、『いずれ千尋に』と常連の前でも言う。一方、半年前に来店した大阪の飲食会社の人から、新店の店長として来てほしいと誘われ、返事を先延ばしにしている。 喜び・希望:焼き上がりを割ったときの湯気、常連の子どもが大きくなっていくのを見ること。いつか自分の考えたソースや焼き方を試してみたい。 言いにくい本音:親方の焼き方が『正解』として固まりすぎていて、少し窮屈に感じている。恩があるからこそ、この店を継いだら一生自分の味を出せない気がしている。

三枚のカード

  • 過去:審判(正位置)
  • 現在:月(正位置)
  • 未来:星(逆位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月29日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。