義父の日誌は、農協の古いカレンダーを裏返して綴じたものだった。
四年前の春、腰に湿布を貼った義父は、それを座卓に積み上げて言った。「書いてあるとおりにやれば、間違いはねえ」。三十何冊ぶんの、右肩の下がった鉛筆の字。種籾を水に浸ける日、苗を田に下ろす日、肥料の袋の数。恵理子は保育園を辞め、その字をなぞるようにして四度の春と秋を過ごした。
家から一番遠い田だけは水はけが悪く、毎年そこの稲が先に倒れた。それでも日誌には、その田にも同じ品種、同じ日付が書いてあった。書いてあるのだから、と恵理子は思った。自分の字を書き足したことは、一度もない。
◇
刈り取りの済んだ朝、作業小屋のラジオが、来年産の主食用米の需要は今年より最大で五十万トン近く少ない見通しだと言った。
昼前、農協の営農指導員から電話が来た。国の目安が大きく下がるので、町の割り当ても減る。来年の作付けの計画を、来週の金曜までに出してほしい。主食用を減らして大豆に回すなら、交付金の対象になる。
「三浦さんとこは、どうします」
「家で相談します」
相談はしなかった。夕飯のあいだ、義父は黙って天気予報を見ていた。義母は漬物を切り足した。夫は電話口で「任せる」と言い、すぐに寮の風呂の時間だからと切った。
恵理子は計画書を二枚もらってきて、二枚とも鉛筆で埋めた。一枚は、全部お米。もう一枚は、あの水はけの悪い田を含む四枚を大豆にしたもの。二枚を重ねて折り、軽トラのダッシュボードに入れた。
娘が刈り跡の田をスマホで撮りながら、「来年もここ、同じ?」と聞いた。「さあね」と答えた自分の声が思ったより弾んでいて、恵理子はあわてて口を閉じた。
◇
木曜の晩、恵理子は箸を置いた。
「来年も、全部お米でいきます。お義父さんの田んぼですから」
義父は湯のみを持ったまま、しばらく動かなかった。それから「そうか」と言った。「おまえがそう決めたんなら、そうか」
その夜遅く、義父は作業小屋の明かりをつけ、隣の佐々木に電話をかけた。
「播種機の話な。あれ、なしにしてくれ」
ラジオを聞いた日の午後、義父は佐々木の家まで歩いていき、大豆の播種機を来年の春に貸してくれと頼んでいた。田んぼ四枚ぶん。遠いあの田も入れて。「あそこは最初から米に向かねえ田だ。おれが意地で植えてただけだ」と。
「嫁さんには言ったのか」
「あれが言い出すのを待ってた。おれが先に言ったら、あれは断れねえべ」
受話器の向こうで、佐々木が長く息を吐いた。
「もったいねえな。機械は空いてんのに」
電話を切ると、義父は棚から一番新しい日誌を取り、来年の春の頁を開いた。種籾を浸ける日、苗を下ろす日。いつもの日付を、いつもの順に、いつもの右肩の下がった字で書き入れた。四枚の田にも、同じ品種を書いた。
金曜の朝、恵理子は全部お米のほうの計画書を農協の窓口に出した。もう一枚は、折ったままダッシュボードに残した。
帰り道、遠い田の脇で軽トラを停めた。倒れた稲の跡が、刈り跡の中でそこだけ渦を巻いている。
お義父さん、ほっとしただろうな。
恵理子はそう思い、思ったことに少し胸を痛め、それからエンジンをかけ直した。