父の凧は、骨の左右が髪の毛一本ぶんでも違うと、空で回った。
木工所の仕事から帰った父は、夕飯のあと、居間の新聞紙の上で竹ひごを削った。小刀を当てては親指の腹で撫で、天秤ばかりの皿に一本ずつのせる。足りなければ削り、削りすぎれば和紙を一枚貼り足す。小学生の樹は、その皿が水平になるのを息を止めて見ていた。
「風は、まっすぐ来えへん。せやから凧のほうが、まっすぐでおらなあかん」
木枯らしの一番が発表された次の日曜には、二人で川の河川敷へ行った。それが小野寺の家の、冬のはじまりだった。
母が亡くなってからの三年、樹は休みのたびに奈良と大阪を行き来してきた。美織と会う週末は、実家に寄るのを金曜の夜に前倒しした。どちらにも少しずつ足りず、どちらにも少しずつ足りていた。五年の付き合いは、そうやって皿の上で釣り合わせてきたものだった。
◇
夜勤の予報卓には、全国の発電所の風車の向きが並んでいる。
日付が変わる前から、北西の風が強まっていた。樹は日本海側の発電所の発電量の予想を上に直し、顧客に送った。送ってから、数値が一桁ずれていることに気づいた。二年目の後輩が先に気づき、黙って訂正版を作っていた。
「すみません、小野寺さん。勝手に」
「勝手にするな」
自分の声の硬さに、樹がいちばん驚いた。後輩は目を伏せて席に戻った。
手元の携帯には、美織からの短い文が三日前のまま残っている。〈急かしてるつもりはないから〉。急かされているのではない、と樹は思う。決められないのを父のせいにしている自分を、毎晩こうして見せられているだけだ。
零時四十五分、大阪の観測値が更新された。西北西、九・一メートル。
近畿の木枯らしの目安は、冬型の気圧配置で吹く北寄りの風、最大風速おおむね八メートル。樹は画面の数字をしばらく見ていた。一・一メートル。届いてしまった、と思った。届かなければいいと思っていた自分に、そのとき気づいた。
◇
午前十一時、気象庁が東京と近畿の木枯らし一号を発表した。去年より六日早かった。
夜勤明けの仮眠室で、携帯が鳴った。父だった。
「発表、あったな」
「うん」
「物置から出してきた。骨が一本、虫に食われとってな。削り直した」
父の声は、去年転んでからいくらか細くなった。それでも、竹を削る話をするときだけは、昔の速さに戻る。
「日曜、来られるか」
樹は、日曜は美織と会う約束だと言いかけて、黙った。皿の片方を持ち上げれば、もう片方が下がる。そう思いかけて、ふと、両方を同じ皿にのせたことは一度もなかったと気づいた。
「一人、連れていってもええか」
父は少し黙り、「骨、もう一本削っとくわ」とだけ言った。
◇
日曜の河川敷は、北風が一日中やまなかった。
美織が糸巻きを握り、父が凧を掲げて走りかけ、膝を押さえて止まった。樹が代わりに走った。凧は二度落ち、三度目に、手を離した瞬間から勝手に上がっていった。
父は土手の斜面に、頭を下にして仰向けに寝転んだ。
「こうして見るとな、凧が下へ落ちていきよるように見える」
樹も隣に寝転んだ。逆さの空の底で、凧は糸に引かれ、風に押され、そのどちらにも負けずに震えていた。引く手と押す風のどちらかがなくなれば、あれはただの紙と竹に戻る。
一緒に暮らすのか。奈良に戻るのか。答えは、まだどこにもなかった。
「樹くん、これ、どうやったら降りてくるの」
糸巻きを抱えた美織が、逆さまの顔で笑っている。
「まだ、降ろさんでええ」
樹はそう言って、逆さの空をもうしばらく見ていた。