月夜の短編集

2026.10.28 / 科学

八メートル

節制・正位置
過去 節制・正位置
力・逆位置
現在 力・逆位置
吊るされた男・正位置
未来 吊るされた男・正位置

父の凧は、骨の左右が髪の毛一本ぶんでも違うと、空で回った。

木工所の仕事から帰った父は、夕飯のあと、居間の新聞紙の上で竹ひごを削った。小刀を当てては親指の腹で撫で、天秤ばかりの皿に一本ずつのせる。足りなければ削り、削りすぎれば和紙を一枚貼り足す。小学生の樹は、その皿が水平になるのを息を止めて見ていた。

「風は、まっすぐ来えへん。せやから凧のほうが、まっすぐでおらなあかん」

木枯らしの一番が発表された次の日曜には、二人で川の河川敷へ行った。それが小野寺の家の、冬のはじまりだった。

母が亡くなってからの三年、樹は休みのたびに奈良と大阪を行き来してきた。美織と会う週末は、実家に寄るのを金曜の夜に前倒しした。どちらにも少しずつ足りず、どちらにも少しずつ足りていた。五年の付き合いは、そうやって皿の上で釣り合わせてきたものだった。

◇

夜勤の予報卓には、全国の発電所の風車の向きが並んでいる。

日付が変わる前から、北西の風が強まっていた。樹は日本海側の発電所の発電量の予想を上に直し、顧客に送った。送ってから、数値が一桁ずれていることに気づいた。二年目の後輩が先に気づき、黙って訂正版を作っていた。

「すみません、小野寺さん。勝手に」

「勝手にするな」

自分の声の硬さに、樹がいちばん驚いた。後輩は目を伏せて席に戻った。

手元の携帯には、美織からの短い文が三日前のまま残っている。〈急かしてるつもりはないから〉。急かされているのではない、と樹は思う。決められないのを父のせいにしている自分を、毎晩こうして見せられているだけだ。

零時四十五分、大阪の観測値が更新された。西北西、九・一メートル。

近畿の木枯らしの目安は、冬型の気圧配置で吹く北寄りの風、最大風速おおむね八メートル。樹は画面の数字をしばらく見ていた。一・一メートル。届いてしまった、と思った。届かなければいいと思っていた自分に、そのとき気づいた。

◇

午前十一時、気象庁が東京と近畿の木枯らし一号を発表した。去年より六日早かった。

夜勤明けの仮眠室で、携帯が鳴った。父だった。

「発表、あったな」

「うん」

「物置から出してきた。骨が一本、虫に食われとってな。削り直した」

父の声は、去年転んでからいくらか細くなった。それでも、竹を削る話をするときだけは、昔の速さに戻る。

「日曜、来られるか」

樹は、日曜は美織と会う約束だと言いかけて、黙った。皿の片方を持ち上げれば、もう片方が下がる。そう思いかけて、ふと、両方を同じ皿にのせたことは一度もなかったと気づいた。

「一人、連れていってもええか」

父は少し黙り、「骨、もう一本削っとくわ」とだけ言った。

◇

日曜の河川敷は、北風が一日中やまなかった。

美織が糸巻きを握り、父が凧を掲げて走りかけ、膝を押さえて止まった。樹が代わりに走った。凧は二度落ち、三度目に、手を離した瞬間から勝手に上がっていった。

父は土手の斜面に、頭を下にして仰向けに寝転んだ。

「こうして見るとな、凧が下へ落ちていきよるように見える」

樹も隣に寝転んだ。逆さの空の底で、凧は糸に引かれ、風に押され、そのどちらにも負けずに震えていた。引く手と押す風のどちらかがなくなれば、あれはただの紙と竹に戻る。

一緒に暮らすのか。奈良に戻るのか。答えは、まだどこにもなかった。

「樹くん、これ、どうやったら降りてくるの」

糸巻きを抱えた美織が、逆さまの顔で笑っている。

「まだ、降ろさんでええ」

樹はそう言って、逆さの空をもうしばらく見ていた。

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ニュースと選定

題材は「東京と近畿で「木枯らし1号」 去年より6日早く」。 西高東低の冬型の気圧配置で全国的に北寄りの風が強まり、気象庁は28日午前11時、東京地方と近畿地方で木枯らし1号が吹いたと発表。いずれも去年より6日早い。東京都心では午前5時20分に最大瞬間風速16.9m/s(北西)、大阪市では9.1m/s(西北西)を観測。29日朝は放射冷却で各地今季一番の冷え込みの見込み。同日未明には札幌・函館・室蘭で初雪も観測された。 NHK(10/28 11:29)のほか、共同通信(Yahoo!ニュース配信)、時事ドットコム、日本気象協会tenki.jp(10/28 11:18、観測風速の詳細あり)の別系統報道で同内容を確認。一次情報である気象庁(東京管区・大阪管区気象台)の発表ページそのものは今回直接確認できていない(京都地方気象台の新着情報には未掲載)。配信日が2026年10月28日であることは各記事で確認。

人物

小野寺 樹(仮名)、35歳、大阪の民間気象会社で風力発電所向けの風況予測を担当する気象予報士。一人暮らし。交際5年の恋人から春までに同居を決めてと言われ、奈良の実家で一人になった父のことで踏み出せない。 【名前・年齢・職業】小野寺 樹(おのでら いつき・仮名)、35歳、男性。大阪市内の民間気象会社に勤める気象予報士。全国の風力発電所向けに風の強さと向きの予報を出し、発電量の見通しを顧客に送る。夜勤を含むシフト制。 【家庭環境・生活状況】大阪市内の1Kで一人暮らし。実家は奈良の盆地の町。母は3年前に亡くなり、元木工所勤めの父(68)が一人で暮らす。父は定年後に始めた小さな畑を続けているが、去年軽い転倒をしてから、樹は月に二度ほど様子を見に帰っている。兄弟はいない。交際5年の恋人・美織(33、病院の臨床検査技師)とは週末に会う関係。 【過去の経験】小学生の頃、父と冬の河川敷で凧を揚げた。風を読むのがうまいと父に褒められたのが、気象の道に進んだ原点。大学院まで進んだが研究者の道は諦め、民間へ。母の病気がわかった時、仕事の繁忙期で見舞いが遅れたことを今も悔いている。 【今の悩み・葛藤】美織から「春までに、一緒に暮らすかどうか決めてほしい」と言われている。好きな気持ちは変わらないが、父の先行きが読めず、奈良に戻る可能性も捨てきれない。どちらを選んでも誰かを置いていく気がする。 【喜び・楽しみ・希望】季節の変わり目を予報で当てること。休日に六甲や生駒の尾根を歩き、風の音を聞くこと。美織と夜のファミレスで他愛ない話をする時間。いつか父と美織と三人で凧を揚げられたら、とぼんやり思う。 【他人には言いにくい本音】本当は、決めないまま今の関係が続くほうが楽だと思っている。父の存在を、決めない理由に使っているのではないかと自分を疑っている。

三枚のカード

  • 過去:節制(正位置)
  • 現在:力(逆位置)
  • 未来:吊るされた男(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月28日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。