月夜の短編集

2026.10.28 / 社会

先客

魔術師・逆位置
過去 魔術師・逆位置
力・正位置
現在 力・正位置
隠者・正位置
未来 隠者・正位置

福岡の店を辞めて戻った春、隆之は鞄いっぱいに道具を詰めてきた。刃の薄い輸入物の鋏に、すきバサミが三種類、分厚いヘアカタログ。待合のベンチの上の壁に、若い客向けの写真を並べて貼った。

「町の客には要らんけん」

父は一度だけそう言い、写真には触れなかった。写真の前で足を止める客はいなかった。隆之は鋏を研ぎ、研いでは仕舞い、仕舞った鋏の数をときどき数えた。都会で覚えた刈り方を一度も通しで使わないまま、父と同じ角刈りを十年刈った。腕はあると思っていた。使い道を探さなかっただけだと、今は思う。

◇

夏の地震のあと、店は北へ少し傾いた。三台並んだ椅子のうち、まっすぐ座れるのは窓際の一台だけになった。妻と娘は県外の妻の実家へ行き、隆之は店の奥の六畳で父と寝起きしている。

朝、隆之は鏡を拭く。傾いた壁に掛かった鏡は、拭いても拭いても、ほんの少し斜めに町を映した。

十時を過ぎると、向かいの坂口さんが杖をついてやって来る。

「ここで刈らんと、落ち着かん」

隆之は窓際の椅子を倒し、湯で温めたタオルを顔に当てる。坂口さんの家は公費で壊してもらうことに決まったという。仮設の抽選はまだ当たらない。隆之は相槌だけを打ち、剃刀を寝かせて、うなじの産毛をゆっくりあたった。急がなければ、手は震えない。

鞄の中には、解体の申込書が二週間入ったままだった。役場の窓口でもらってきた晩、父は茶の間でテレビを見ていて、振り向きもしなかった。

「この家で死ぬ」

話はそこから先へ進まない。進まないのが父のせいなのか、自分のせいなのか、隆之は考えないようにしていた。夜になると父は懐中電灯を持って、ひとりで店の中を歩く。傾いた床を一枚ずつ確かめるように、ゆっくりと。

◇

木曜の午後、町の支援員が来た。壊れた家に残って暮らす人たちを、地震からひと季節たった今も一軒ずつ回っている若い女性だった。血圧計と、冬用の毛布の申込票を抱えていた。

「お父さん、お変わりないですか。それと、解体のほう、日程が出ましたのでお知らせに」

隆之は聞き返した。

「先々週、ご本人が窓口に来られましたよ。名義がお父さんなので、申請はご本人でないと受け付けられなくて。……ご存じなかったですか」

支援員が帰ったあと、隆之は茶の間の箪笥を開けた。一番上の引き出しに、受付印の押された控えがあった。日付は、隆之が申込書をもらってきた日の、翌朝だった。

「言うたら、お前が止めるけん」

父はテレビを消さずに言った。

「止めんよ」

「止める。お前は昔から、決めんで研ぐばっかりたい」

隆之は言い返せなかった。鞄の中の紙は、最初から自分の名前では出せない紙だったのだ。二週間、迷っていたつもりのことは、迷う前に済んでいた。

「この家で死ぬ、とは言うた」父は画面を見たまま続けた。「ばってん、家のほうが先に死ぬなら、見送ってやらんといかん。壊す前の晩まで、ここにおる。それで終いたい」

その夜、父は懐中電灯を持たずに店へ出て、窓際の椅子に腰を下ろした。

「刈ってくれ。お前のやり方で」

隆之は、十年仕舞ってあった薄い鋏を箱から出した。街灯の明かりが斜めの鏡に入り、父の白い頭を、ほんの少しずれた位置に映していた。隆之は櫛を通し、最初のひと房を、ゆっくり切った。

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ニュースと選定

題材は「熊本地震3か月 住まいの確保と在宅避難者への継続支援が課題」。 ことし7月の熊本地震から10月28日で3か月。避難生活が長期化し、1000人余りがなお避難所に身を寄せているほか、壊れた自宅で暮らし続ける在宅避難者も多い。冬を前に住まいの確保と在宅避難者への継続支援が課題。関連して震度7の氷川町では被災建物の公費解体が始まり、申請受付は12月25日まで(RKK)。 NHK(10/28 5:28配信、前日版10/27もあり)で確認。別系統として熊本日日新聞「2026年熊本地震3カ月 千人超がなお避難所生活 建設型仮設完成2割強、罹災証明未交付など要因」、テレビ朝日系(ANN)「熊本地震から3カ月 いまだ1000人超が避難生活 公費解体開始も」、時事通信(10/27)の見出しを検索結果で確認(本文はサイト制限で未取得)。公費解体の申請期限12月25日はRKK熊本放送(Yahoo!ニュース)見出しで確認。県・市の一次発表の最新数値は未確認。

人物

江藤 隆之(仮名)、42歳、熊本県南の町で祖父の代からの理容店を継ぐ理容師。地震で店舗兼住宅が半壊、妻と小4の娘は県外の妻の実家へ。店の奥で78歳の父と在宅避難。公費解体を申し込むか迷う。 【名前】江藤 隆之(仮名)42歳、理容師。 【家庭・生活】県南の小さな町で、祖父が開いた理容店(店舗兼住宅)の三代目。7月の地震で建物が半壊し傾いた。妻(40、介護職)と小学4年の娘は県外の妻の実家に身を寄せ、娘はそちらの小学校に通う。隆之は店の奥の一間で父(78、元理容師、妻を5年前に亡くす)と在宅避難を続け、傾いていない椅子1台だけで近所の常連の散髪を細々と再開している。 【過去】高校卒業後、福岡の大手チェーン店で10年働いたが、母が倒れたのを機に32歳で帰郷し店を継いだ。都会の店で覚えた技術を父に『町の客には要らん』と言われ、ぶつかってきた。 【悩み・葛藤】12月25日の公費解体の申請期限が迫る。解体して建て直せば家族は戻れるかもしれないが、父は『この家で死ぬ』と言い、避難所にも仮設にも行かない。申込書は2週間鞄に入ったまま。 【喜び・希望】毎朝、鏡を拭いて開店準備をする時間。常連の老人が『ここで刈らんと落ち着かん』と来てくれること。週末の娘とのビデオ通話。 【言いにくい本音】父のためと言いながら、実は自分が一番この店を壊したくない。決断の責任を父の頑固さに押しつけているのではないかと思っている。妻からの『いつ決めるの』に、ちゃんと答えられていない。

三枚のカード

  • 過去:魔術師(逆位置)
  • 現在:力(正位置)
  • 未来:隠者(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月28日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。