月夜の短編集

2026.10.27 / 科学

配信停止

月・正位置
過去 月・正位置
女教皇・逆位置
現在 女教皇・逆位置
恋人・逆位置
未来 恋人・逆位置

あの夜、雨は音でしか見えなかった。

入庁四年目の早紀は、危機管理係の机で送信画面を開いたまま、課長の判断を待っていた。窓の外は黒く、川の水位の数字だけが画面の隅でひとつずつ増えていく。「もう少し様子を見る」と課長は三度言った。四度目の電話を切ったとき、課長は早紀のほうを見ずに「出して」と言った。

早紀は文面を読み返した。避難指示。対象地区。読み返すたびに、どこかが間違っている気がした。指が送信の上で止まり、それから押した。

翌週の住民説明会で、前列の男性が「何時に届いたのか」と聞いた。課長は資料をめくり、「担当が送信したのは」と時刻を読み上げた。担当、という言葉の先に早紀がいた。

それ以来、早紀は文面を最低五回読み返す。句読点の位置まで、声に出して。

◇

その知らせを見たのは、保育園から息子を連れ帰った夕方だった。ある携帯会社で、緊急速報の配信が三日あまり止まっていた。ゆうべ遅く、すべて再開したという。

早紀は抱っこ紐の留め具を外しながら、日付を指で数えた。止まっていたあいだ、町には雨も揺れもなかった。週の半ばに、町の訓練配信を一本送っている。その会社の携帯を持つ住民には、届いていなかったことになる。役場の電話は一度も鳴らなかった。

ほっとした。それは本当だった。けれど湯を沸かしているうちに、別のものが胸の底から上がってきた。届かなくても、誰も困らなかった。

職場の机の引き出しには、異動希望の用紙が入っている。理由の欄には「育児との両立のため」と書いた。夫には、まだ見せていない。

「あめ」

息子が窓を指さした。外は晴れていた。息子は近ごろ、空を見るたびにそう言う。早紀は「あめ、ないね」と答え、自分の声が少し硬いことに気づいた。

◇

翌朝、早紀は用紙を出さなかった。代わりに、高齢者サロンの名簿を開いた。

あの会社の携帯を使っている人は、サロンの常連にも何人かいるはずだった。三日のあいだ、その人たちの手の中には何も届かなかった。誰も困らなかったのは、たまたま空が黙っていたからにすぎない。それなら、もう一本、別の道を通しておけばいい。町の登録制メールと、防災アプリ。両方入れておけば、どちらかは届く。

午後、公民館の和室で、早紀は一人ずつ携帯を預かって登録した。三人目が、いつも帰りにみかんを持たせてくれる須田さんだった。

「早紀ちゃんの言うことなら」

須田さんは老眼鏡をずらし、画面を覗き込んで笑った。

二日後の明け方、早紀の携帯に須田さんの番号が光った。

「ねえ、これ、止めてちょうだい」

声が掠れていた。夜中に二度、枕元で鳴ったのだという。隣の県の大雨の知らせと、アプリの試験通知。似た文面が、時間をずらして二回ずつ。

「飛び起きて雨戸を開けて、外を見たけど、何もないのよ。そのあと、もう眠れなくて」

早紀は謝り、その日の昼休みに須田さんの家へ行った。

縁側で携帯を受け取り、設定を開く。登録の解除。アプリの通知を切る。最後に出た確認の画面に、「配信を停止します。よろしいですか」とあった。

早紀はその一行を読んだ。一度。二度。三度目で、須田さんが横から覗き込んだ。

「押していいのよ」

早紀は押した。

携帯は須田さんの手に戻り、もう何も言わなくなった。須田さんは「ああ、静か」と息をつき、台所からみかんを持ってきた。いつもより一つ多かった。

早紀ちゃんの言うことなら、と言ったときと同じ顔で、須田さんは笑っていた。

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ニュースと選定

題材は「ソフトバンク 緊急速報メールの配信すべて再開」。 PHPの深刻な脆弱性への対応メンテナンスのため、ソフトバンク(Y!mobile・LINEMO含む)は10月23日6時47分から緊急速報メールの配信を停止。25日に気象庁の緊急地震速報・津波警報を先行再開し、26日23時17分に国・自治体の災害・避難情報も再開、全メンテナンスを完了した。停止中は代替として防災アプリの利用を呼びかけていた。 NHK(10/27 1:03)、ケータイ Watch(10/27 0:22、Yahoo!ニュース等に配信)、ビジネス+IT(10/26 1:58、停止経緯)の別系統報道で確認。停止開始10/23 6:47、地震・津波は10/25 9:25再開、災害・避難情報は10/26 23:17再開で一致。ソフトバンク公式発表「緊急速報メールの配信再開について」はケータイ Watchが参照しているが、本文は未確認。配信日は日本時間10/27。

人物

日比野 早紀(仮名)、31歳、山あいの町役場の危機管理係で避難情報の配信を担当。夫と1歳の息子の三人暮らし。来春の異動希望を出すか迷う。 名前:日比野 早紀(仮名)、31歳、山あいの小さな町の役場職員(危機管理係、入庁9年目)。 家庭:町内の借家で、町外の工務店に勤める夫と1歳の息子と三人暮らし。育休明け半年。保育園の迎えは夫と交代だが、警報が出ると帰れない。 過去:入庁4年目の大雨の夜、上司の判断待ちで避難指示の配信が遅れ、送信ボタンを押したのが自分だったことから、住民説明会で名指しに近い形で責められた。以来、文面を何度も読み返す癖がある。 悩み:緊急速報メールが一部の携帯会社で3日以上届かなかったと知り、その間何も起きなかった安堵と、『自分の文章が届かなくても誰も困らなかった』という虚しさが同時に来た。定時で帰れる別の課への異動希望を出すか迷っている。 喜び・希望:息子が最近『あめ』と言えるようになった。夜、役場の屋上で見る星。町の高齢者サロンで防災の話をすると、帰りにみかんを持たされること。 本音:本当は、あの夜からずっと送信ボタンが怖い。異動したいのは子どものためだと言っているが、半分は逃げたいからだと思っている。

三枚のカード

  • 過去:月(正位置)
  • 現在:女教皇(逆位置)
  • 未来:恋人(逆位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月27日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。