あの夜、雨は音でしか見えなかった。
入庁四年目の早紀は、危機管理係の机で送信画面を開いたまま、課長の判断を待っていた。窓の外は黒く、川の水位の数字だけが画面の隅でひとつずつ増えていく。「もう少し様子を見る」と課長は三度言った。四度目の電話を切ったとき、課長は早紀のほうを見ずに「出して」と言った。
早紀は文面を読み返した。避難指示。対象地区。読み返すたびに、どこかが間違っている気がした。指が送信の上で止まり、それから押した。
翌週の住民説明会で、前列の男性が「何時に届いたのか」と聞いた。課長は資料をめくり、「担当が送信したのは」と時刻を読み上げた。担当、という言葉の先に早紀がいた。
それ以来、早紀は文面を最低五回読み返す。句読点の位置まで、声に出して。
◇
その知らせを見たのは、保育園から息子を連れ帰った夕方だった。ある携帯会社で、緊急速報の配信が三日あまり止まっていた。ゆうべ遅く、すべて再開したという。
早紀は抱っこ紐の留め具を外しながら、日付を指で数えた。止まっていたあいだ、町には雨も揺れもなかった。週の半ばに、町の訓練配信を一本送っている。その会社の携帯を持つ住民には、届いていなかったことになる。役場の電話は一度も鳴らなかった。
ほっとした。それは本当だった。けれど湯を沸かしているうちに、別のものが胸の底から上がってきた。届かなくても、誰も困らなかった。
職場の机の引き出しには、異動希望の用紙が入っている。理由の欄には「育児との両立のため」と書いた。夫には、まだ見せていない。
「あめ」
息子が窓を指さした。外は晴れていた。息子は近ごろ、空を見るたびにそう言う。早紀は「あめ、ないね」と答え、自分の声が少し硬いことに気づいた。
◇
翌朝、早紀は用紙を出さなかった。代わりに、高齢者サロンの名簿を開いた。
あの会社の携帯を使っている人は、サロンの常連にも何人かいるはずだった。三日のあいだ、その人たちの手の中には何も届かなかった。誰も困らなかったのは、たまたま空が黙っていたからにすぎない。それなら、もう一本、別の道を通しておけばいい。町の登録制メールと、防災アプリ。両方入れておけば、どちらかは届く。
午後、公民館の和室で、早紀は一人ずつ携帯を預かって登録した。三人目が、いつも帰りにみかんを持たせてくれる須田さんだった。
「早紀ちゃんの言うことなら」
須田さんは老眼鏡をずらし、画面を覗き込んで笑った。
二日後の明け方、早紀の携帯に須田さんの番号が光った。
「ねえ、これ、止めてちょうだい」
声が掠れていた。夜中に二度、枕元で鳴ったのだという。隣の県の大雨の知らせと、アプリの試験通知。似た文面が、時間をずらして二回ずつ。
「飛び起きて雨戸を開けて、外を見たけど、何もないのよ。そのあと、もう眠れなくて」
早紀は謝り、その日の昼休みに須田さんの家へ行った。
縁側で携帯を受け取り、設定を開く。登録の解除。アプリの通知を切る。最後に出た確認の画面に、「配信を停止します。よろしいですか」とあった。
早紀はその一行を読んだ。一度。二度。三度目で、須田さんが横から覗き込んだ。
「押していいのよ」
早紀は押した。
携帯は須田さんの手に戻り、もう何も言わなくなった。須田さんは「ああ、静か」と息をつき、台所からみかんを持ってきた。いつもより一つ多かった。
早紀ちゃんの言うことなら、と言ったときと同じ顔で、須田さんは笑っていた。