三十年前の夏、正道は団地の広場に紅白の幕を張った。
子ども会の夏祭りだった。焼きそばの鉄板を二枚借り、金魚すくいの水槽を軽トラックで運び、マイクを握って「四号棟のちびっこ、集まれえ」と叫んだ。拍手が起きた。配達で顔を知っている家の子は、全員名前で呼んでやった。
夕立が来たのは七時過ぎだ。テントは一張りしか借りていなかった。濡れた紙皿を拾い集めながら、律子が言った。
「雨のこと、私、三回言ったよね」
その晩、娘の部屋の前を通ると、襖の向こうから小さな声がした。
「お父さんは、よその子のお父さんだから」
正道は聞こえないふりをして、自分の布団に入った。
◇
苦情の紙は、四つ折りのまま五日間、正道の上着のポケットにあった。
〈四〇三号室の赤ちゃんの泣き声で眠れません。自治会から注意してください〉
差出人の名前はない。字の癖から、正道は三階の誰か、いや二階の誰かと考えては打ち消した。考えるほど、団地じゅうの窓がこちらを見ている気がした。
壁の向こうで、また泣き声が上がった。午前二時。律子の寝息は乱れない。正道は天井を見ながら、泣き声が細くなり、やがて途切れるまで聞いていた。途切れると、なぜか自分の喉が詰まった。
六日目の夕方、四〇三号室の呼び鈴を押した。
ドアを開けたのは、まだ二十代に見える母親だった。抱っこひもの中で、赤ん坊が拳を口に入れている。目の下が青い。
「自治会の、古賀です」
母親の顔がこわばった。正道はポケットの中で紙を握った。
「あの……元気な子だね。生まれて、どのくらい?」
「ヨンかげつ、です」
「そう。うちの娘も、夜はよく泣いた」
嘘ではなかった。ただ、夜泣きをあやしていたのはいつも律子だった。正道は紙を出さないまま会釈をして、ドアが閉まる音を背中で聞いた。
◇
年内解散を決める役員会は、日曜の午前、集会所で開かれた。役員は六人、正道を入れて平均七十四歳だった。机の上には、市に返す予定の集会所の鍵が置いてある。
始まる直前、市役所から若い保健師がやって来た。資料を配りながら、少し早口で言う。
「この地区は、去年生まれた赤ちゃんの、一割を超えるご家庭が外国籍の親御さんなんです。全国でも過去最多で、そういう市町村が六年前の三倍に増えているんです」
保健師は、乳児の相談会を定期的に、ここの集会所で開きたいのだと言った。母子手帳の読み方を、何か国語かで説明する。ただし、場所の管理をする地元の団体が要る。
「自治会がなくなると、この部屋は使えなくなります」
誰も口を開かなかった。正道は鍵を見ていた。自分が言うべきだと思った。続けよう、と。だが、その言葉がどこから出てくるのか、自分でもわからなかった。孫の代わりが欲しいだけではないのか。
先に声を出したのは、二〇一号室の岩佐さんだった。八十二歳、いちばん古い住人だ。
「あの紙、書いたのは私よ」
正道は顔を上げた。
「夜中に泣かれちゃ眠れないの。年寄りは眠りが浅いんだから。だったら昼間、ここに連れてくればいいじゃない。泣くのは昼に泣かせて、夜は寝かせる。昔はみんなそうしてたわよ」
岩佐さんは鍵を取り上げ、正道の前に滑らせた。
「会長、あんた子ども会やってたでしょう。段取りは奥さんに聞きなさい。あんたはマイク持ってりゃいいの」
笑いが起きた。挙手は全員だった。正道は、手を挙げるのがいちばん遅かった。
帰り道、四階まで階段を上る途中で、壁の向こうから泣き声が聞こえた。昼の泣き声だった。正道は鍵を握ったまま、踊り場で少し立ち止まり、それから律子に何と切り出すかを考えはじめた。