月夜の短編集

2026.10.27 / 社会

昼の泣き声

魔術師・逆位置
過去 魔術師・逆位置
女教皇・逆位置
現在 女教皇・逆位置
教皇・正位置
未来 教皇・正位置

三十年前の夏、正道は団地の広場に紅白の幕を張った。

子ども会の夏祭りだった。焼きそばの鉄板を二枚借り、金魚すくいの水槽を軽トラックで運び、マイクを握って「四号棟のちびっこ、集まれえ」と叫んだ。拍手が起きた。配達で顔を知っている家の子は、全員名前で呼んでやった。

夕立が来たのは七時過ぎだ。テントは一張りしか借りていなかった。濡れた紙皿を拾い集めながら、律子が言った。

「雨のこと、私、三回言ったよね」

その晩、娘の部屋の前を通ると、襖の向こうから小さな声がした。

「お父さんは、よその子のお父さんだから」

正道は聞こえないふりをして、自分の布団に入った。

◇

苦情の紙は、四つ折りのまま五日間、正道の上着のポケットにあった。

〈四〇三号室の赤ちゃんの泣き声で眠れません。自治会から注意してください〉

差出人の名前はない。字の癖から、正道は三階の誰か、いや二階の誰かと考えては打ち消した。考えるほど、団地じゅうの窓がこちらを見ている気がした。

壁の向こうで、また泣き声が上がった。午前二時。律子の寝息は乱れない。正道は天井を見ながら、泣き声が細くなり、やがて途切れるまで聞いていた。途切れると、なぜか自分の喉が詰まった。

六日目の夕方、四〇三号室の呼び鈴を押した。

ドアを開けたのは、まだ二十代に見える母親だった。抱っこひもの中で、赤ん坊が拳を口に入れている。目の下が青い。

「自治会の、古賀です」

母親の顔がこわばった。正道はポケットの中で紙を握った。

「あの……元気な子だね。生まれて、どのくらい?」

「ヨンかげつ、です」

「そう。うちの娘も、夜はよく泣いた」

嘘ではなかった。ただ、夜泣きをあやしていたのはいつも律子だった。正道は紙を出さないまま会釈をして、ドアが閉まる音を背中で聞いた。

◇

年内解散を決める役員会は、日曜の午前、集会所で開かれた。役員は六人、正道を入れて平均七十四歳だった。机の上には、市に返す予定の集会所の鍵が置いてある。

始まる直前、市役所から若い保健師がやって来た。資料を配りながら、少し早口で言う。

「この地区は、去年生まれた赤ちゃんの、一割を超えるご家庭が外国籍の親御さんなんです。全国でも過去最多で、そういう市町村が六年前の三倍に増えているんです」

保健師は、乳児の相談会を定期的に、ここの集会所で開きたいのだと言った。母子手帳の読み方を、何か国語かで説明する。ただし、場所の管理をする地元の団体が要る。

「自治会がなくなると、この部屋は使えなくなります」

誰も口を開かなかった。正道は鍵を見ていた。自分が言うべきだと思った。続けよう、と。だが、その言葉がどこから出てくるのか、自分でもわからなかった。孫の代わりが欲しいだけではないのか。

先に声を出したのは、二〇一号室の岩佐さんだった。八十二歳、いちばん古い住人だ。

「あの紙、書いたのは私よ」

正道は顔を上げた。

「夜中に泣かれちゃ眠れないの。年寄りは眠りが浅いんだから。だったら昼間、ここに連れてくればいいじゃない。泣くのは昼に泣かせて、夜は寝かせる。昔はみんなそうしてたわよ」

岩佐さんは鍵を取り上げ、正道の前に滑らせた。

「会長、あんた子ども会やってたでしょう。段取りは奥さんに聞きなさい。あんたはマイク持ってりゃいいの」

笑いが起きた。挙手は全員だった。正道は、手を挙げるのがいちばん遅かった。

帰り道、四階まで階段を上る途中で、壁の向こうから泣き声が聞こえた。昼の泣き声だった。正道は鍵を握ったまま、踊り場で少し立ち止まり、それから律子に何と切り出すかを考えはじめた。

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ニュースと選定

題材は「外国人の出生 過去最多 1割超の自治体も3倍に」。 去年国内で生まれた外国人の子どもはおよそ2万3000人で、3年連続で過去最多を更新。市と特別区の800あまりの自治体のうち、出生全体に占める外国人の子どもの割合が10%を超える自治体が6年前の3倍に増えた(NHK、2026年10月27日6:49配信)。 本日配信の報道はNHK1本で確認(本文は冒頭部分のみ閲覧可)。データは厚生労働省「人口動態統計」によるものと見られるが、一次資料の該当表は今回未確認。前年分(2024年:外国人出生が初の2万人超・全体の3.2%)はYahoo!ニュース エキスパート記事など別系統でも報じられており、増加傾向は裏付けあり。同日の別系統報道は見つけられなかった。

人物

古賀 正道(仮名)、66歳、元郵便局の集配員。北関東の県営団地で今年から自治会長。妻と二人暮らし。隣室の外国人夫婦に赤ちゃんが生まれ、夜泣きの苦情を伝える役目に。 名前:古賀 正道(こが まさみち、仮名)/66歳/元郵便局の集配員(60歳で定年、65歳まで再雇用)。 家庭・生活:北関東の工業団地に近い県営団地の4階に、妻・律子(64)と二人暮らし。一人娘(38)は東京で共働き、子はいない。帰省は年に一度ほどで少し疎遠。年金暮らしで、団地の脇の区画で家庭菜園をしている。 過去:30年前、団地は子どもであふれ、妻と二人で子ども会を切り盛りした。配達で地域の家々を知り尽くしていた。今年、なり手がおらずくじ引きで自治会長に。 悩み・葛藤:住民の高齢化で自治会は年内解散の話が出ている。隣室に越してきた外国人の若い夫婦に赤ちゃんが生まれ、夜泣きの苦情が自治会に届き、伝えに行く役目を負った。役員会で「外国人が増えて」とこぼす声に反論できなかった。 喜び・希望:朝、壁越しに聞こえる赤ん坊の声。菜園の秋野菜。昔の子ども会の写真。 言いにくい本音:娘に孫がいないことを寂しく思っていて、隣の赤ん坊に孫を重ねている。それを妻にも言えず、自分でも恥ずかしいと思っている。

三枚のカード

  • 過去:魔術師(逆位置)
  • 現在:女教皇(逆位置)
  • 未来:教皇(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月27日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。