月夜の短編集

2026.10.27 / 文化

包み紙

月・逆位置
過去 月・逆位置
星・逆位置
現在 星・逆位置
魔術師・正位置
未来 魔術師・正位置

兄の部屋は、いつも少しだけ醤油の匂いがした。

圭太が十歳になった冬、四つ上の浩一は、小遣いをためてボクシング漫画をひと揃い買ってきた。押し入れの上の段に背表紙をきっちり並べ、一冊ずつ抜いて圭太に手渡すとき、決まって言った。

「汚すなよ」

借り物だから、圭太は寝転ばずに正座して読んだ。ページの端を折らず、読み終えると両手で返した。十八で家を出る朝、荷物の段ボールの底にその全巻が入っていた。返しそびれた借り物だと思い、礼も言わずにいた。兄の本、兄の棚、兄の言いつけ。そういうものだと、四十年あまり思ってきた。

父の家を売る話がこじれたのも、その押し入れのある部屋だった。介護の明細を広げた座卓の向こうで、兄は「お前は何もしてない」と言い、圭太は「頼んだ覚えはない」と返した。どちらの声が大きかったのか、もう思い出せない。思い出せないまま、二十二年がたった。

◇

市立病院の夜間通用口には、零時を過ぎると救急車のほか誰も来ない。

警備員室の小さなテレビが、その漫画家の訃報を繰り返していた。白黒の原画が映り、リングの隅に座る少年の横顔が一瞬だけ画面を横切った。圭太は巡回表に時刻を書き込み、ペンを置いた。

携帯電話の連絡先を開く。「浩一」の下に、局番の古い固定電話の番号が残っている。

もしもし、で始めるか。久しぶり、か。ニュース見たか、なら自然だろうか。父さんのことは悪かった、と先に言うべきか。言葉を並べるたびに、受話器の向こうの沈黙が長くなっていく気がした。ちょうどいい一言が見つかるまでは押せない、と思い、そんな一言はどこにもないのだとも思った。

救急車の赤い光が天井を撫でて、消えた。圭太は画面を伏せ、懐中電灯を持って立ち上がった。

◇

夜勤明けの朝、台所のテーブルに漫画が積まれていた。湊が古本屋で見つけてきた、あの全巻だ。横にはコンビニの袋と、透明なブックカバーの束がある。

「昨日のニュース見てさ。もう新しいのは出ないんだと思ったら、ちゃんとしときたくなって」

湊は一冊ずつ紙のカバーを外し、透明なものに掛け替えていた。手を止めて、むき出しの表紙を父のほうへ向ける。

「お父さん、これ、カバーの下に字書いてあんの知ってた?」

厚紙の隅に、ボールペンの細い字があった。

けいた 十さい おめでとう こういち

中学生の、角ばって右上がりの字だった。

圭太は積まれた山から一巻を抜き、カバーをずらした。同じ場所に、同じ字があった。二巻にも、三巻にも。

借りていたのではなかった。最初から、圭太のものだったのだ。毎回棚から一冊ずつ出してきたのは兄で、「汚すなよ」は、照れくさい贈り物を包むための紙だった。

外されたカバーの裏には、古書店の値札シールが貼ってあった。この町の店の名前だった。七年前、離婚してこの部屋へ移るとき、段ボールごと引き取ってもらった本の山がある。中身を確かめもしなかった。

何もしていなかったのは、あの座卓の前だけではなかった。

兄に何と言えばいいか、と圭太は一晩じゅう考えていた。違ったのだ。自分が何を手放したのかを、自分でも知らずにいた。それを知らないまま、兄の沈黙ばかりを怖がっていた。

「なに、泣いてんの」

「泣いてない」

湊は掛け替えの済んだ最終巻を父の前に置き、鞄を肩にかけた。

「俺もう読んだから、貸してやるよ」

玄関で振り返り、まるで誰かに習ったような口ぶりで付け足した。

「汚すなよ」

ドアが閉まった。圭太は椅子の上で、なぜか膝をそろえて座り直した。それから一巻を取り、兄の字が透けて見える向きでテーブルに置いて、最初のページを開いた。

この物語の手前にあった相談を読む
制作過程を読む

ニュースと選定

題材は「漫画家のちばてつやさん死去 87歳 「あしたのジョー」 文化勲章受章」。 『あしたのジョー』などで知られる漫画家ちばてつやさんが10月22日、東京都内の病院で死去(87歳)。27日に小学館・日本漫画家協会などが公表。葬儀は家族葬で済ませ、お別れの会は検討中。日本漫画家協会会長、文星芸術大学学長を務め、2024年に漫画家として初めて文化勲章を受章。 一次情報:小学館ビッグコミックBROS.NETの訃報(2026/10/27掲載、10月22日18時逝去・享年87・家族葬・喪主は妻)。別系統報道:KAI-YOU(10/27 12:36配信、日本漫画家協会公式サイトの告知に言及)、スポーツ報知(Yahoo!ニュース)。いずれも配信日10月27日を確認。死因は公表なし。

人物

真鍋 圭太(仮名)、52歳、市立病院の夜間警備員。離婚し中学2年の息子と二人暮らし。20年以上絶縁している兄に連絡するか迷う。 名前:真鍋 圭太(まなべ けいた・仮名)、52歳、男性。 職業:市立病院の夜間警備員(委託会社の契約社員、勤続8年)。以前は印刷会社の営業職だったが会社が廃業。 家庭:7年前に離婚。中学2年の息子・湊(みなと)と郊外の2DKで二人暮らし。元妻とは月1回の面会日の連絡程度。 過去:4歳上の兄・浩一と、子どもの頃は同じ部屋で育った。兄が小遣いで全巻そろえたボクシング漫画を「汚すなよ」と言いながら貸してくれたのが一番の思い出。父の死後、実家の売却と介護費用の精算で揉め、兄に「お前は何もしてない」と言われ、自分も言い返して以来、22年口をきいていない。兄は地元に残り、妻子がいるらしい。 悩み:作者の訃報を見た日、息子が古本屋で同じ漫画を見つけて読んでいる。兄に連絡したいが、何を話せばいいか分からず、また傷つけ合うのが怖い。 喜び・希望:夜勤明けに息子と朝ごはんを食べる時間。息子が漫画の名場面を真似してくると笑ってしまう。 本音:本当は、あのとき父の介護をほとんど兄に任せていたことを自分でも分かっている。謝りたいのか、許してほしいのか、自分でも分からない。

三枚のカード

  • 過去:月(逆位置)
  • 現在:星(逆位置)
  • 未来:魔術師(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月27日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。