兄の部屋は、いつも少しだけ醤油の匂いがした。
圭太が十歳になった冬、四つ上の浩一は、小遣いをためてボクシング漫画をひと揃い買ってきた。押し入れの上の段に背表紙をきっちり並べ、一冊ずつ抜いて圭太に手渡すとき、決まって言った。
「汚すなよ」
借り物だから、圭太は寝転ばずに正座して読んだ。ページの端を折らず、読み終えると両手で返した。十八で家を出る朝、荷物の段ボールの底にその全巻が入っていた。返しそびれた借り物だと思い、礼も言わずにいた。兄の本、兄の棚、兄の言いつけ。そういうものだと、四十年あまり思ってきた。
父の家を売る話がこじれたのも、その押し入れのある部屋だった。介護の明細を広げた座卓の向こうで、兄は「お前は何もしてない」と言い、圭太は「頼んだ覚えはない」と返した。どちらの声が大きかったのか、もう思い出せない。思い出せないまま、二十二年がたった。
◇
市立病院の夜間通用口には、零時を過ぎると救急車のほか誰も来ない。
警備員室の小さなテレビが、その漫画家の訃報を繰り返していた。白黒の原画が映り、リングの隅に座る少年の横顔が一瞬だけ画面を横切った。圭太は巡回表に時刻を書き込み、ペンを置いた。
携帯電話の連絡先を開く。「浩一」の下に、局番の古い固定電話の番号が残っている。
もしもし、で始めるか。久しぶり、か。ニュース見たか、なら自然だろうか。父さんのことは悪かった、と先に言うべきか。言葉を並べるたびに、受話器の向こうの沈黙が長くなっていく気がした。ちょうどいい一言が見つかるまでは押せない、と思い、そんな一言はどこにもないのだとも思った。
救急車の赤い光が天井を撫でて、消えた。圭太は画面を伏せ、懐中電灯を持って立ち上がった。
◇
夜勤明けの朝、台所のテーブルに漫画が積まれていた。湊が古本屋で見つけてきた、あの全巻だ。横にはコンビニの袋と、透明なブックカバーの束がある。
「昨日のニュース見てさ。もう新しいのは出ないんだと思ったら、ちゃんとしときたくなって」
湊は一冊ずつ紙のカバーを外し、透明なものに掛け替えていた。手を止めて、むき出しの表紙を父のほうへ向ける。
「お父さん、これ、カバーの下に字書いてあんの知ってた?」
厚紙の隅に、ボールペンの細い字があった。
けいた 十さい おめでとう こういち
中学生の、角ばって右上がりの字だった。
圭太は積まれた山から一巻を抜き、カバーをずらした。同じ場所に、同じ字があった。二巻にも、三巻にも。
借りていたのではなかった。最初から、圭太のものだったのだ。毎回棚から一冊ずつ出してきたのは兄で、「汚すなよ」は、照れくさい贈り物を包むための紙だった。
外されたカバーの裏には、古書店の値札シールが貼ってあった。この町の店の名前だった。七年前、離婚してこの部屋へ移るとき、段ボールごと引き取ってもらった本の山がある。中身を確かめもしなかった。
何もしていなかったのは、あの座卓の前だけではなかった。
兄に何と言えばいいか、と圭太は一晩じゅう考えていた。違ったのだ。自分が何を手放したのかを、自分でも知らずにいた。それを知らないまま、兄の沈黙ばかりを怖がっていた。
「なに、泣いてんの」
「泣いてない」
湊は掛け替えの済んだ最終巻を父の前に置き、鞄を肩にかけた。
「俺もう読んだから、貸してやるよ」
玄関で振り返り、まるで誰かに習ったような口ぶりで付け足した。
「汚すなよ」
ドアが閉まった。圭太は椅子の上で、なぜか膝をそろえて座り直した。それから一巻を取り、兄の字が透けて見える向きでテーブルに置いて、最初のページを開いた。