事務センターの三階には、昔、赤鉛筆の匂いがしていた。
入行した春、まどかの隣の机には田端さんという年配の女性がいて、伝票の束を指でめくりながら、赤い芯の先で数字を一つずつ叩いていった。「目で読むんじゃないの。数字のほうから、おかしいって言ってくるのを待つの」。商業高校の珠算部で全国大会の空気を吸ってきたまどかには、その意味がすぐにわかった。半年もしないうちに、課の誰もが、迷ったら「久住さんの目」に回すようになった。
三年前、読み取り機が入った。紙は機械をくぐり、照合の済んだものには緑の印がつき、合わないものだけが赤く画面に残る。田端さんは次の春に辞めた。送別会で花束を抱えたまま、「やっと肩が軽くなった」と笑った。まどかはその言葉に、なぜか腹を立てた。帰り道、腹を立てた理由を考えかけて、やめた。
課の人数は半分になった。まどかはそれからも、緑の印がついた書類の控えを刷り出しては、終業後にもう一度めくっていた。誰にも頼まれていなかった。控えの束は引き出しの奥で、輪ゴムを替えるたびに厚くなった。
◇
朝礼で、課長が回覧を読み上げた。
「大手さんが、窓口や事務の人間を、ひと季節でAIの開発者に育てているでしょう。うちも倣うことになりました」
手を挙げる者は今週の金曜までに、と課長は付け加え、まどかの机に申込書を一枚置いていった。「向いてると思うよ。数字の違和感がわかる人は、作る側にも要るんだ」
その晩、まどかは申込書を台所のテーブルに置いた。祖母は老眼鏡を額に上げ、ちらりと見ただけで急須に湯を注いだ。
「好きにしなさい」
「それしか言わないね」
祖母は湯のみを二つ並べ、しばらく黙っていた。それから、若い頃は電話局で交換手をしていたのだと言った。線と線をつなぐ仕事だった。ある年、機械がひとりでにつなぐようになって、局から人がいなくなった。
「一晩泣いたよ。それで次の朝、駅前の和菓子屋に勤め口を探しに行った」
「泣いたのは、悔しかったから?」
「どうだったかね」祖母は湯のみを両手で包んだ。「ほっとしたのが、恥ずかしかったのかもしれない」
まどかは申込書の氏名欄を見た。どちらを選んでも、もう片方は戻ってこない気がした。手を挙げれば、あの束をめくる夜はなくなる。挙げなければ、いつかの朝礼で、自分の名前のない回覧を聞くことになる。
土曜の午前、近所のそろばん教室で、低学年の男の子が答えの合わない計算を何度もやり直していた。珠を弾く指が、だんだん乱暴になる。まどかはその手首にそっと触れて、指を止めさせた。
「一回、払ってごらん。全部」
男の子は珠をざっと払い、平らになった盤をきょとんと見つめた。それから最初の数を、さっきよりゆっくり置いた。
◇
金曜の夕方、まどかは申込書を課長の机に置いた。
席に戻ると、今日のぶんの書類が、緑の印をつけて右の箱に積まれていた。まどかは控えを刷り出すボタンに伸ばしかけた指を、途中で止めた。
引き出しを開けると、三年分の控えの束の上に、入行の日から削り続けて親指ほどになった赤鉛筆が転がっていた。まどかはそれを手のひらにのせ、重さを量るようにしばらく眺めた。
束は両腕で抱えて、廊下の突き当たりの溶解箱まで運んだ。投入口に一冊ずつ押し込むと、紙は思ったより素直に、暗がりへ落ちていった。赤鉛筆は、田端さんの座っていた机の、いまは誰も使わない引き出しにしまった。
空になった引き出しは、閉めるとき、少し軽い音がした。まどかはまた何かをめくりたがる指を上着のポケットに入れ、エレベーターを待たずに、階段を一段ずつ降りていった。