月夜の短編集

2026.10.27 / 経済

赤い芯

悪魔・逆位置
過去 悪魔・逆位置
恋人・正位置
現在 恋人・正位置
力・正位置
未来 力・正位置

事務センターの三階には、昔、赤鉛筆の匂いがしていた。

入行した春、まどかの隣の机には田端さんという年配の女性がいて、伝票の束を指でめくりながら、赤い芯の先で数字を一つずつ叩いていった。「目で読むんじゃないの。数字のほうから、おかしいって言ってくるのを待つの」。商業高校の珠算部で全国大会の空気を吸ってきたまどかには、その意味がすぐにわかった。半年もしないうちに、課の誰もが、迷ったら「久住さんの目」に回すようになった。

三年前、読み取り機が入った。紙は機械をくぐり、照合の済んだものには緑の印がつき、合わないものだけが赤く画面に残る。田端さんは次の春に辞めた。送別会で花束を抱えたまま、「やっと肩が軽くなった」と笑った。まどかはその言葉に、なぜか腹を立てた。帰り道、腹を立てた理由を考えかけて、やめた。

課の人数は半分になった。まどかはそれからも、緑の印がついた書類の控えを刷り出しては、終業後にもう一度めくっていた。誰にも頼まれていなかった。控えの束は引き出しの奥で、輪ゴムを替えるたびに厚くなった。

◇

朝礼で、課長が回覧を読み上げた。

「大手さんが、窓口や事務の人間を、ひと季節でAIの開発者に育てているでしょう。うちも倣うことになりました」

手を挙げる者は今週の金曜までに、と課長は付け加え、まどかの机に申込書を一枚置いていった。「向いてると思うよ。数字の違和感がわかる人は、作る側にも要るんだ」

その晩、まどかは申込書を台所のテーブルに置いた。祖母は老眼鏡を額に上げ、ちらりと見ただけで急須に湯を注いだ。

「好きにしなさい」

「それしか言わないね」

祖母は湯のみを二つ並べ、しばらく黙っていた。それから、若い頃は電話局で交換手をしていたのだと言った。線と線をつなぐ仕事だった。ある年、機械がひとりでにつなぐようになって、局から人がいなくなった。

「一晩泣いたよ。それで次の朝、駅前の和菓子屋に勤め口を探しに行った」

「泣いたのは、悔しかったから?」

「どうだったかね」祖母は湯のみを両手で包んだ。「ほっとしたのが、恥ずかしかったのかもしれない」

まどかは申込書の氏名欄を見た。どちらを選んでも、もう片方は戻ってこない気がした。手を挙げれば、あの束をめくる夜はなくなる。挙げなければ、いつかの朝礼で、自分の名前のない回覧を聞くことになる。

土曜の午前、近所のそろばん教室で、低学年の男の子が答えの合わない計算を何度もやり直していた。珠を弾く指が、だんだん乱暴になる。まどかはその手首にそっと触れて、指を止めさせた。

「一回、払ってごらん。全部」

男の子は珠をざっと払い、平らになった盤をきょとんと見つめた。それから最初の数を、さっきよりゆっくり置いた。

◇

金曜の夕方、まどかは申込書を課長の机に置いた。

席に戻ると、今日のぶんの書類が、緑の印をつけて右の箱に積まれていた。まどかは控えを刷り出すボタンに伸ばしかけた指を、途中で止めた。

引き出しを開けると、三年分の控えの束の上に、入行の日から削り続けて親指ほどになった赤鉛筆が転がっていた。まどかはそれを手のひらにのせ、重さを量るようにしばらく眺めた。

束は両腕で抱えて、廊下の突き当たりの溶解箱まで運んだ。投入口に一冊ずつ押し込むと、紙は思ったより素直に、暗がりへ落ちていった。赤鉛筆は、田端さんの座っていた机の、いまは誰も使わない引き出しにしまった。

空になった引き出しは、閉めるとき、少し軽い音がした。まどかはまた何かをめくりたがる指を上着のポケットに入れ、エレベーターを待たずに、階段を一段ずつ降りていった。

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ニュースと選定

題材は「金融大手 AI活用に向け人材育成強化の動き」。 大手金融機関の間で、業務でのAI活用を進めるため、専門知識のない社員を「AI人材」として育成する動きが広がっている。みずほフィナンシャルグループは非エンジニア社員を3か月でAIアプリ開発人材に育てる「みずほAI Bootcamp」を本格運用し、来月から傘下の銀行・証券などでも同様の取り組みを進める見通し。 一次情報で裏付け済み:みずほFG ニュースリリース(2026/10/15)「非エンジニア社員を『AIアプリケーション開発人材』へ」https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20261015release_jp.pdf ― 育成期間を1年半から3か月に短縮、初回5名は全員エンジニア職に転換、11月開始の次回は20名程度に拡大、まず100人規模を目指す。別系統報道:朝日新聞(Yahoo!ニュース)・ニッキン・日経。NHK記事は10/27配信を確認(本文は冒頭のみ閲覧可)。

人物

久住 まどか(仮名)、26歳、地方銀行の事務センターで書類照合を担当。祖母と二人暮らし。社内のAI開発研修に応募するか迷う。 名前:久住 まどか(仮名)/26歳/地方銀行の事務センター勤務(商業高校卒で入行、8年目)。書類と伝票の照合・チェックを担当。 家庭・生活:幼い頃に両親が離婚し、母方の祖母(79歳)に育てられた。今も祖母の古い平屋で二人暮らし。給料の一部を家に入れている。 過去:商業高校で珠算部、全国大会に出場。数字を目で追って違和感を見つけるのが得意で、入行後も「久住さんの目」と頼られてきた。 今の悩み:照合作業がシステムとAIに次々置き換わり、部署の人員は3年で半分に。会社が社内公募で非エンジニア向けのAI開発研修(3か月)の希望者を募り、上司に「向いてる」と勧められた。締め切りは今週末。 喜び・希望:週末に祖母と和菓子屋を巡ること。土曜の午前に近所のそろばん教室で子どもに教える手伝いをしている。 言いにくい本音:変わりたいのではなく、取り残されるのが怖いだけ。そして、自分の「目」が要らなくなったことに、少しほっとしている自分もいる。

三枚のカード

  • 過去:悪魔(逆位置)
  • 現在:恋人(正位置)
  • 未来:力(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月27日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。