夜勤明けの休憩室で、千景は自販機の缶コーヒーを両手で包んだまま、スマートフォンの画面を見ていた。女性が初めて棋士になる。会見の写真の中で、その人は少し照れたように笑っていた。
おめでとう、と口の中で言ってみた。声にはならなかった。
留守番電話がまだ一件、消さずに残っている。三週間前、町の将棋教室の先生から入ったものだ。「子どもが増えてな。ちょっと見てやってくれんか。急がんでええ」。再生するたびに、最後の「ええ」のところで少しだけ咳払いが入る。
高校二年の冬、研修会の対局で、千景はまだ指せる局面で頭を下げた。負けました、と言った自分の声がいやに落ち着いていたのを覚えている。帰りの電車で駒袋を鞄の底に押し込み、家に着くと母に「女の子じゃ、やっぱり無理やわ」と言った。母は何も聞き返さなかった。それから二十年、その一言が千景の代わりにずっと答え続けてくれた。
その日の昼、千景は眠らずに公民館へ向かった。断るつもりだった。夜勤のシフト表を印刷して、鞄に入れてあった。
和室には長机が三つ並び、子どもたちの声が天井に跳ねていた。一番奥の机では、低学年の子たちが盤の真ん中に金将を四枚放り投げ、表と裏の出た数だけ駒を進めて盤の外周を回っている。角を曲がるたびに歓声が上がった。
「回り将棋か」
千景がつぶやくと、窓際の先生が顔を上げた。
「おう、来たか。ちょうどええ。あの子の相手が休みでな」
断る言葉を探しているうちに、千景は座布団に座らされていた。向かいの女の子は小学四年生だという。前髪をピンで留め、指先で駒をつまむ手つきだけが妙に大人びていた。
指し始めると、指が勝手に動いた。二十年ぶりの盤なのに、駒の重さを手のひらが覚えていた。夜勤明けの一局で毎朝なぞっている形が、木の盤の上では少し違って見えた。
中盤、女の子の飛車が千景の陣に成り込んだ。千景は盤を見下ろし、自玉の周りを数えた。逃げ道が二つ、いや一つ。頭の奥で、高校二年の冬と同じ冷たさが広がっていく。
千景は小さく息を吸い、頭を下げた。
「負けました」
女の子がきょとんとした顔をした。
「え、なんで? まだ詰んでへんよ」
そう言って、千景の玉を一つ横にずらし、その先に自分の銀を置いてみせる。「ここ逃げたら、わたし、もう王手かけられへんもん。そしたらお姉さんの角、効いてくるやん」
千景は盤を見た。たしかにそうだった。見えていなかったのではない、と思った。見ないことにしていたのだ。
窓の外で、自転車のブレーキが長く鳴った。回り将棋の机から、また歓声が上がる。誰かの金将が四枚とも裏を向いたらしい。
帰り際、先生が下駄箱のところまでついてきた。
「で、どうや」
千景は鞄の中のシフト表に触れた。紙の端が少し折れていた。
「夜勤があるんで、毎週は無理です」
「そうか」
「隔週なら、たぶん」
言いながら、それが断りなのか引き受けなのか、自分でもわからなかった。先生は「たぶんか」と笑い、それ以上は聞かなかった。
外に出ると、夕方の光が公民館の駐車場を斜めに切っていた。千景は鞄を右手に、さっきの対局の棋譜を書きつけたメモを左手に持って歩いた。どちらも軽いはずなのに、なぜか左のほうが重く感じられて、何度か持ち替えた。
角を曲がる手前で、千景は立ち止まり、メモを広げた。投了した局面の、その次の一手を、まだ書いていなかった。