月夜の短編集

2026.10.26 / 社会

折り返し場

教皇・逆位置
過去 教皇・逆位置
節制・逆位置
現在 節制・逆位置
隠者・正位置
未来 隠者・正位置

十五年前の三月、修一は町の集会所で、誰より先に立ち上がった。

「うちは出ます」

石油ストーブの匂いのする部屋で、区長も、隣の家の夫婦も、黙って彼を見た。帰りの車の中で父は一度だけ言った。

「おめは、昔から大げさだ」

その言葉に背中を押されたのだと、修一は長いあいだ思ってきた。五歳の息子を毛布でくるみ、妻を助手席に乗せて、まだ暗い国道を南へ走った。父は見送りに出てこなかった。出てこなかったことを、修一は正しさの証のように胸にしまった。

妻が子どもを連れて戻ると言い出したのは三年後だ。もう大丈夫だって、みんな言ってる。みんな、と修一は繰り返した。みんなが何を言っても、俺は残る。言いながら、自分が何に向かって意地を張っているのか、もうわからなくなっていた。

◇

始発の営業所は、蛍光灯がひとつ切れかけていた。

休憩室のテレビが、避難した人たちの訴えが退けられたと告げた。公務員住宅、未払いの家賃、退去。アナウンサーの声は平らだった。修一は紙コップのコーヒーを持ったまま、画面の端に映る団地の窓を数えた。

その日、彼は三つ目の停留所を通り過ぎた。

降車ボタンは鳴っていた。後ろから「あの」と細い声がして、ブレーキを踏んだときには、いつもの紺色のコートの女性がもう立ち上がっていた。毎朝、病院前で降りる人だ。

「すみません、次で」

「いいのよ。たまには歩くわ」

女性は笑って、ひとつ先で降りた。ミラーの中で、彼女はゆっくりと来た道を戻っていった。修一はその背中から目を離せず、後ろのタクシーに短く鳴らされた。

昼は食べなかった。代わりに、頼まれてもいない夕方の便を引き受けた。体を動かしていれば、テレビの声が遠のく気がした。

ポケットの中で電話が二度震えた。父だった。三度目は、息子からのメッセージだった。会社の慰安旅行で撮ったらしい写真に、知らない若者たちと並んで、日焼けした息子が笑っていた。修一はそこに返す言葉を探し、見つけられずに画面を伏せた。

夜、アパートに帰ると、ベランダのミニトマトが割れていた。何日も水をやり忘れて、昨夜あわててたっぷり注いだせいだ。赤い実の皮が、どれも同じ方向に裂けていた。

修一は流しの前に立ったまま、割れた実をひとつ口に入れた。甘さと酸っぱさが、順番を間違えたように舌に来た。

◇

日曜の夜、彼は自転車を出した。

毎日バスで走る路線を、終点まで漕いでいく。休日によくやる遊びだったが、この夜は誰の顔も思い浮かべないように走った。父の声も、息子の写真も、集会所で立ち上がった自分も、いったん後ろの荷台に縛りつけて。

終点の折り返し場は、街灯がひとつきりだった。ベンチに腰を下ろすと、前輪のライトだけが、足もとの二、三メートルを白く照らした。その先は見えない。見えないことが、今夜はなぜか怖くなかった。

逃げたのか。残ったのか。どちらでもいい問いのような気がしてきた。それより知りたいのは、自分が今、どこにいるとき息がしやすいのかということだった。父のためでも、息子のためでも、十五年前の自分の面目のためでもなく。

それは、ここに座っていても、わからない。ここにしかいないのでは、わからない。

修一は電話を出し、息子とのやりとりを開いた。

〈写真、いい顔してたな〉

少し考えて、続けた。

〈来月、休みを取ってひとりでそっちへ行く。じいちゃんにはまだ言うな。帰るかどうかは、決めてない〉

送信してから、ライトの輪の中に落ちている枯れ葉を眺めた。風が一枚を運び、輪の外へ出した。

返事は、まだ来なかった。修一はペダルに足をかけ、照らされたぶんだけ、来た道を戻りはじめた。

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ニュースと選定

題材は「原発避難、無償住宅打ち切り適法 福島第1事故、11人の請求棄却」。 東京電力福島第1原発事故で避難指示区域外から避難し、東京都・埼玉県の国家公務員住宅に住んだ11人が、住宅の無償提供を打ち切った福島県知事の決定は違法だとして県に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁(池田知子裁判長)は打ち切りを適法と判断し請求を棄却。「政策判断に裁量権の逸脱は認められない」とした。一方、県が求めた住宅からの退去と未払い家賃などの支払いは認めた。無償提供は2017年3月末に打ち切られ、その後2年間は有償契約。一部を除く原告は2019年3月末の契約終了後も住み続けていた。 共同通信配信記事をデイリースポーツonline(10/26)で本文確認、Yahoo!ニュース(共同通信)でも同見出しの配信を検索で確認(本文は取得不可)。いずれも共同通信由来で別系統の報道・判決文などの一次情報は未確認。同種の区域外避難者の住宅明け渡し訴訟が過去に最高裁で確定している背景は日経・東京新聞の見出しで確認。

人物

沢渡 修一(仮名)、49歳、埼玉で路線バス運転士。2011年に妻子と福島から区域外避難、妻は息子を連れて帰郷し離婚。一人暮らし。 名前: 沢渡 修一(仮名)/49歳/埼玉県内の路線バス会社の運転士(勤続12年)。 家庭環境: 2011年、当時5歳の息子と妻を連れて福島県中通りの町から埼玉へ自主避難。最初は借り上げ住宅、のちに自分で借りた2DKのアパート。妻は2014年に息子を連れて故郷へ戻り、2016年に離婚。息子(20歳)は今春から福島の地元企業で働き始めた。実家には82歳の父が一人暮らし(母は数年前に他界)。 過去の経験: 地元では小さな工務店の現場監督だった。避難を決めたのは自分で、周囲から「大げさだ」と言われた。埼玉では職を転々とし、大型二種を取ってバス運転士になった。 今の悩み: 父から帰ってこいと言われ続けている。息子との距離も縮めたい。けれど帰ることは「あの選択は間違いだった」と認めることのようで踏み切れない。今日、同じ境遇の人が住まいを追われる判決を知って動揺している。 喜び・楽しみ: 早朝便で毎日同じ停留所から乗る常連客との短い挨拶。ベランダで育てているミニトマト。休日に路線をなぞって自転車で走ること。 言いにくい本音: もう放射線が怖くて残っているのではない。埼玉での自分のほうが、故郷にいた頃より気楽で好きだと感じている。それを父にも息子にも言えない。

三枚のカード

  • 過去:教皇(逆位置)
  • 現在:節制(逆位置)
  • 未来:隠者(正位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月26日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。