アーケードの蛍光灯が一本おきに消されるのは、夜の九時を過ぎてからだ。
房江が初めてこの店の値札を書いたのも、そういう暗い晩だった。嫁いで二年目、税率が上がる前の夜で、義母はレジの横に座布団を敷き、厚紙を一枚ずつ切っては房江に渡した。「三円上がると、ひじきは売れなくなるかね」と義母は言い、答えを待たずに次の札を寄越した。シャッターの向こうで、どこかの犬が長く鳴いた。それが犬なのか、もっと別のものなのか、房江にはわからなかった。この店にずっといるのかどうかも、あの頃はわからなかった。義母の太い字の横に、房江の細い字が並んだ。乾くまで、二人で黙って眺めていた。
十一時半になると、店の前に列ができる。
「おばちゃん、いつもの」
制服の上着を腰に巻いた男の子が、指を二本立てる。コロッケ二つ。房江は紙袋の口を折りながら、奥の油の音を聞いている。勝利は三十年、同じ鍋で同じ温度に揚げている。ぱちぱちという音が少し低くなったら上げどきだと、房江は耳で知っている。
杖をついた坂井さんが、きんぴらと卯の花を指さした。
「消費税、下がるんだってねえ。よかったねえ、房江ちゃん」
「まだ決まってないのよ」
「でも、よかったじゃない」
房江は笑って、ひと匙多めによそった。量ったあとで足すのは、義母の癖だった。いつのまにか自分の癖になっている。坂井さんは毎日ここで昼と夜の分を買う。この人の冷蔵庫の中身の半分は、たぶんこの店の味だ。
昼の列が引けると、ショーケースのバットは底が見えていた。売り切れた肉じゃがの鍋に、勝利が黙って水を張った。
その晩、房江は帳場の引き出しを開けた。レジの設定を変える業者の電話番号を探していた。古い領収書の束の下から、色の褪せた厚紙が出てきた。義母の字で「ひじき煮 百円」とある。あの晩の値札だった。
裏返すと、鉛筆の字があった。勝利の、角ばった字だった。
――長らくのご愛顧、ありがとうございました。
その先は消しゴムで消してあった。消し跡の下に「来年の春」と読める気がしたが、「来年の秋」にも見えた。日付は書いていない。いつ書いたのかも、わからない。
房江は厚紙を持ったまま、二階に続く階段を見上げた。テレビの音が漏れていた。野球の延長戦らしく、勝利が小さく舌打ちするのが聞こえた。
階段の一段目に足をかけて、房江はやめた。
あの人も、ひとりで考えていたのだ。三十年、同じ鍋の前で、何も言わずに。そう思うと、なぜか腹が立った。自分が言い出せなかったことを、先に、しかも黙って書かれていたことに。それから、腹を立てる筋合いのないことにも気づいた。
厚紙を領収書の下に戻し、引き出しを閉めた。
台所の明かりを消し、帳場のスタンドだけを点けた。新しい厚紙を切り、マジックのキャップを外す。「ひじき煮」と書いて、手が止まった。値段の欄を空けたまま、次の札を切った。卯の花。きんぴら。肉じゃが。コロッケ。
二年たてば、また書き直す。その頃、この店があるかどうかはわからない。
上で、テレビが消えた。廊下を歩く足音が、階段の上で一度止まった。房江はスタンドの首を少し下げて、光が階段に届かないようにした。足音は、やがて寝室のほうへ遠ざかった。
房江は値段のない札を、一枚ずつ重ねていった。どの札も、裏は白いままだった。