月夜の短編集

2026.10.26 / 政治

値札の裏

月・正位置
過去 月・正位置
女帝・正位置
現在 女帝・正位置
隠者・逆位置
未来 隠者・逆位置

アーケードの蛍光灯が一本おきに消されるのは、夜の九時を過ぎてからだ。
房江が初めてこの店の値札を書いたのも、そういう暗い晩だった。嫁いで二年目、税率が上がる前の夜で、義母はレジの横に座布団を敷き、厚紙を一枚ずつ切っては房江に渡した。「三円上がると、ひじきは売れなくなるかね」と義母は言い、答えを待たずに次の札を寄越した。シャッターの向こうで、どこかの犬が長く鳴いた。それが犬なのか、もっと別のものなのか、房江にはわからなかった。この店にずっといるのかどうかも、あの頃はわからなかった。義母の太い字の横に、房江の細い字が並んだ。乾くまで、二人で黙って眺めていた。

十一時半になると、店の前に列ができる。
「おばちゃん、いつもの」
制服の上着を腰に巻いた男の子が、指を二本立てる。コロッケ二つ。房江は紙袋の口を折りながら、奥の油の音を聞いている。勝利は三十年、同じ鍋で同じ温度に揚げている。ぱちぱちという音が少し低くなったら上げどきだと、房江は耳で知っている。
杖をついた坂井さんが、きんぴらと卯の花を指さした。
「消費税、下がるんだってねえ。よかったねえ、房江ちゃん」
「まだ決まってないのよ」
「でも、よかったじゃない」
房江は笑って、ひと匙多めによそった。量ったあとで足すのは、義母の癖だった。いつのまにか自分の癖になっている。坂井さんは毎日ここで昼と夜の分を買う。この人の冷蔵庫の中身の半分は、たぶんこの店の味だ。
昼の列が引けると、ショーケースのバットは底が見えていた。売り切れた肉じゃがの鍋に、勝利が黙って水を張った。

その晩、房江は帳場の引き出しを開けた。レジの設定を変える業者の電話番号を探していた。古い領収書の束の下から、色の褪せた厚紙が出てきた。義母の字で「ひじき煮 百円」とある。あの晩の値札だった。
裏返すと、鉛筆の字があった。勝利の、角ばった字だった。
――長らくのご愛顧、ありがとうございました。
その先は消しゴムで消してあった。消し跡の下に「来年の春」と読める気がしたが、「来年の秋」にも見えた。日付は書いていない。いつ書いたのかも、わからない。
房江は厚紙を持ったまま、二階に続く階段を見上げた。テレビの音が漏れていた。野球の延長戦らしく、勝利が小さく舌打ちするのが聞こえた。
階段の一段目に足をかけて、房江はやめた。
あの人も、ひとりで考えていたのだ。三十年、同じ鍋の前で、何も言わずに。そう思うと、なぜか腹が立った。自分が言い出せなかったことを、先に、しかも黙って書かれていたことに。それから、腹を立てる筋合いのないことにも気づいた。
厚紙を領収書の下に戻し、引き出しを閉めた。
台所の明かりを消し、帳場のスタンドだけを点けた。新しい厚紙を切り、マジックのキャップを外す。「ひじき煮」と書いて、手が止まった。値段の欄を空けたまま、次の札を切った。卯の花。きんぴら。肉じゃが。コロッケ。
二年たてば、また書き直す。その頃、この店があるかどうかはわからない。
上で、テレビが消えた。廊下を歩く足音が、階段の上で一度止まった。房江はスタンドの首を少し下げて、光が階段に届かないようにした。足音は、やがて寝室のほうへ遠ざかった。
房江は値段のない札を、一枚ずつ重ねていった。どの札も、裏は白いままだった。

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ニュースと選定

題材は「消費税減税法案 与党 通過時期探る 野党 支援金対象明示を」。 国会では今週も食料品の消費税減税関連法案の審議が続く。与党は野党の主張にも耳を傾けつつ衆院通過の時期を探り、野党は所得に応じた支援金の対象など制度の具体的内容を示すよう求めている。法案は2027年4月から2年間、食料品の税率を1%に下げ、その後8%に戻す内容とされる。 NHK(10/26 5:46)の記事で今日の審議見通しを確認。法案の中身(2027年4月から2年間食料品1%、その後8%、所得連動の就業者負担軽減支援金)は、しんぶん赤旗10/21の衆院審議入り記事と、NHK 10/20の審議入り記事で確認(赤旗は政党機関紙で批判的立場)。日経・沖縄タイムスの関連記事は取得不可。財務省など一次情報の法案本文は今回確認できていない。

人物

柳瀬 房江(仮名)、57歳、地方都市の商店街で夫と惣菜店を営んで約30年。息子は東京で会社員。減税を機に店を閉めたい本音を言い出せない。 名前:柳瀬 房江(やなせ ふさえ・仮名)、57歳、惣菜店「やなせ」のおかみ。 家庭・生活:地方都市の古いアーケード商店街で、2歳上の夫・勝利と二人で惣菜店を営む。店の二階が住まい。一人息子(30歳)は東京でIT系の会社員、帰省は年に一度。朝5時に起きて仕込み、夜7時に閉店。 過去:結婚前は信用金庫の窓口係。義母が始めた店を27歳で手伝い始め、義母の他界後に引き継いだ。消費税導入や5%・8%・10%への引き上げ、軽減税率のたびに値札を手書きで書き直してきた。 悩み:食料品の消費税が2年間1%になると聞き、常連は喜ぶが、自分は値札・レジ設定・仕入れの計算をまたやり直すのかと疲れを感じる。2年で戻るならもう一度。商店街の空き店舗は増え、体力も落ちてきた。 喜び・希望:昼どきに近所の高校生や一人暮らしの老人が「おばちゃん、いつもの」と言ってくれること。夫の揚げるコロッケの音。いつか夫婦で温泉旅行に行きたい。 言いにくい本音:減税騒ぎを「区切り」の口実にして店を畳みたいと思っている。けれど店がなくなったら自分が何者でもなくなる気がして怖い。夫が本当はどう思っているのか、聞くのが怖い。

三枚のカード

  • 過去:月(正位置)
  • 現在:女帝(正位置)
  • 未来:隠者(逆位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月26日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。