閉館後の図書館は、澄江にとっていちばん正直になれる場所だった。返却された本を書架に戻し終えると、事務室の隅で卓上灯をひとつだけ点ける。三年前の冬、彼女はその灯りの下で、自分のためだけの小さな仕組みを組み上げた。
借りた解説書を何冊も読み、休憩時間にノートへ数字を書き写した。遠くの誰かのコンピューターを月ぎめで借り、そこに売買の手順を置く。あとは、彼女が眠っている間も、仕組みが勝手に働いてくれる。
父の文具店が閉まった年のことを、彼女はよく覚えている。母が親戚の家の玄関先で、何度も頭を下げていた。自分の財布に、誰にも頭を下げずに済むお金を少しだけ持っていたい。願いはそれだけだったし、それは誰に言う必要もないことだと思っていた。
夫には言わなかった。言えば、相談になる。相談になれば、それはもう自分ひとりのものではなくなる気がした。
知らせは火曜日の夜、携帯電話に届いた。借りていた遠くの部屋に、知らない誰かが入り込んでいたという。続報が来るたびに文面は長くなり、「お見舞金」という言葉が出てきた日、澄江は台所で卵焼きを焦がした。
「お母さん、黒い」
弁当箱をのぞいた娘が笑った。澄江も笑ったが、手の中の菜箸がかすかに震えていた。
口座を開けば、数字がある。数字を見れば、もう知らなかったことにはできない。彼女は三日間、画面のその場所を指でよけて暮らした。
土曜の夜、夫が風呂に入っている間に、ようやく開いた。
見覚えのない売買が四つ、並んでいた。合計の損は、想像していたよりずっと小さかった。三日間、頭の中で膨らませていた数字の、十分の一にも満たない。澄江は息を吐き、それから、もう一度画面を下までなぞった。
損よりも重いものが、そこに残っていた。売買の時刻だ。深夜二時、三時。彼女がぐっすり眠っていたはずの時間に、知らない誰かが彼女の名前で、彼女のお金を動かしていた。
仕組みは、本当に彼女が眠っている間も働いていた。ただ、誰のために働くかを、仕組み自身は選ばなかった。
浴室の戸が開く音がして、澄江は画面を伏せた。伏せてから、自分がいま何を守ろうとしたのか、わからなくなった。
日曜の朝、彼女は書類を食卓に並べた。
知らせの文面を印刷したもの。口座の明細。三年分の入金の記録を、日付順に書き出した表。補償を申し出るために必要なものの一覧。図書館で本を分類するときと同じように、ひとつずつ見出しをつけて、クリップで留めた。
新聞を広げかけた夫が、手を止めた。
「何これ」
「三年前から、黙ってやってたこと」
夫は表の一枚目をしばらく眺め、二枚目をめくり、三枚目で眼鏡を外した。怒鳴りはしなかった。それが、かえって澄江には長く感じられた。
「損は、これだけ?」
「お金の損は、それだけ」
夫は何か言いかけて、やめた。代わりに、表の余白にボールペンで小さく線を引いた。
「月にいくらまで、とか。決めといたほうがいいんじゃないか。続けるなら」
続けるなら、と彼は言った。やめろ、とは言わなかった。それが許しなのか、ただ面倒を避けたいだけなのか、澄江にはまだわからなかった。わからないまま、彼女はペンを受け取り、線の横に数字を書いた。自分で決めた数字だった。
「これは私が決める。そのかわり、毎月この表を、ここに置く」
夫は眼鏡をかけ直し、うなずいたのか、ただ新聞に目を戻したのか、どちらとも取れる角度で首を動かした。
娘が起きてきて、食卓の書類を見て「なにそれ、試験?」と言った。
「そう。お母さんの」
澄江はクリップの束をそろえ、一番上の紙に、図書館で使う分類票のような見出しを書き足した。
閉架、ではなく、開架。
それが正しい棚なのかどうかは、まだ誰にも決められなかった。