三年前の春、妻は台所で求人票を広げて言った。
「慎吾が決めて。行かないなら、行かない」
慎吾は湯呑みを見たまま「どっちでもいいよ」と答えた。札幌の事務所を辞めて半年が過ぎていた。どちらでもよかったのは本当で、だからこそ、選んだのは妻だということになった。
越してきた家の庭には、リンゴの木が一本あった。引き渡しの日、施設に入る前のおばあさんが、杖の先で幹を軽く叩いた。
「これだけは、毎年もいでやってね」
慎吾は笑ってうなずいた。返事をしたつもりはなかった。
日曜の朝、町内会長の坂口さんが長靴のまま玄関に立った。
「隣町で出たってよ。庭のリンゴ、全部やられたって。保育所のカボチャまでかじってったらしい」
坂口さんは庭のほうへ顎をしゃくった。
「実のなる木は切るか、せめて全部もぐか。この辺じゃ、そういう決まりみたいなもんだから」
慎吾は「ですよね」と言った。決まり、という言葉は、思っていたより手に馴染んだ。三年間、回覧板の当番も草刈りの日程も、慎吾は覚えられなかった。覚える気がなかったのかもしれない。それなのに、この決まりだけはすぐに飲み込めた。
昼過ぎ、夜勤明けで眠っている妻を起こさないように、慎吾は物置から坂口さんに借りたチェーンソーを出した。四歳の娘は居間で、保育所で描いたカボチャの絵に色を足していた。
「パパ、リンゴいつとるの」
「今年は、早めにね」
嘘ではなかった。
夕方、空が灰色に沈むころ、慎吾は木の根元に立った。もいだ実は四つしかなかった。数えた覚えのある年より、ずっと少なかった。エンジンをかけると、音が谷にぶつかって返ってきた。考える前に刃を当てた。考えれば、また誰かが決めるのを待ってしまう気がした。
幹は思ったより柔らかく、思ったより重かった。傾いた方向が、少しずれた。枝が物置の雨樋を引きはがし、柵の板を二枚折って、ようやく止まった。
窓が開いた。寝癖のついた妻が、何も言わずにこちらを見ていた。その横から、娘が顔を出した。
「熊が来たの」
慎吾は、うん、と言いかけて、口を閉じた。チェーンソーはまだ手の中で小さく震えていた。
夜、娘が寝たあと、妻は台所の椅子に座ったまま言った。
「切るのはいいの。危ないし。でも、どうして私に聞かなかったの」
「聞いたら、またどっちでもいいって言いそうで」
妻は少し笑った。笑ってから、湯呑みを両手で包んだ。
「二年たったら、札幌に戻ってもいいんだよ。慎吾が決めるなら」
慎吾は答えなかった。返事をしないことが、今夜はひどく重かった。
翌朝、保育所へ向かう道で、娘がポケットから小さな実を一つ取り出した。青みの残る、いびつなリンゴだった。
「これ、とっといたの。くまにあげないやつ」
昨日、もいだ実が四つしかなかった理由を、慎吾はそこで知った。
「どうするの、それ」
「おばあちゃんに見せる」
施設がどこにあるのか、慎吾は知らなかった。坂口さんなら知っているだろう、と思った。思っただけで、足は止まらなかった。霧の向こうで、保育所の門に飾られたカボチャが、欠けた顔のまま笑っていた。
帰り道、庭に回ると、切り株が白く濡れていた。慎吾はしゃがみ込み、指で年輪を数えはじめた。三十を過ぎたあたりで、どこまで数えたのかわからなくなった。もう一度、外側から数え直した。