月夜の短編集

2026.10.25 / 地域

年輪

恋人・逆位置
過去 恋人・逆位置
教皇・逆位置
現在 教皇・逆位置
愚者・逆位置
未来 愚者・逆位置

三年前の春、妻は台所で求人票を広げて言った。

「慎吾が決めて。行かないなら、行かない」

慎吾は湯呑みを見たまま「どっちでもいいよ」と答えた。札幌の事務所を辞めて半年が過ぎていた。どちらでもよかったのは本当で、だからこそ、選んだのは妻だということになった。

越してきた家の庭には、リンゴの木が一本あった。引き渡しの日、施設に入る前のおばあさんが、杖の先で幹を軽く叩いた。

「これだけは、毎年もいでやってね」

慎吾は笑ってうなずいた。返事をしたつもりはなかった。

日曜の朝、町内会長の坂口さんが長靴のまま玄関に立った。

「隣町で出たってよ。庭のリンゴ、全部やられたって。保育所のカボチャまでかじってったらしい」

坂口さんは庭のほうへ顎をしゃくった。

「実のなる木は切るか、せめて全部もぐか。この辺じゃ、そういう決まりみたいなもんだから」

慎吾は「ですよね」と言った。決まり、という言葉は、思っていたより手に馴染んだ。三年間、回覧板の当番も草刈りの日程も、慎吾は覚えられなかった。覚える気がなかったのかもしれない。それなのに、この決まりだけはすぐに飲み込めた。

昼過ぎ、夜勤明けで眠っている妻を起こさないように、慎吾は物置から坂口さんに借りたチェーンソーを出した。四歳の娘は居間で、保育所で描いたカボチャの絵に色を足していた。

「パパ、リンゴいつとるの」

「今年は、早めにね」

嘘ではなかった。

夕方、空が灰色に沈むころ、慎吾は木の根元に立った。もいだ実は四つしかなかった。数えた覚えのある年より、ずっと少なかった。エンジンをかけると、音が谷にぶつかって返ってきた。考える前に刃を当てた。考えれば、また誰かが決めるのを待ってしまう気がした。

幹は思ったより柔らかく、思ったより重かった。傾いた方向が、少しずれた。枝が物置の雨樋を引きはがし、柵の板を二枚折って、ようやく止まった。

窓が開いた。寝癖のついた妻が、何も言わずにこちらを見ていた。その横から、娘が顔を出した。

「熊が来たの」

慎吾は、うん、と言いかけて、口を閉じた。チェーンソーはまだ手の中で小さく震えていた。

夜、娘が寝たあと、妻は台所の椅子に座ったまま言った。

「切るのはいいの。危ないし。でも、どうして私に聞かなかったの」

「聞いたら、またどっちでもいいって言いそうで」

妻は少し笑った。笑ってから、湯呑みを両手で包んだ。

「二年たったら、札幌に戻ってもいいんだよ。慎吾が決めるなら」

慎吾は答えなかった。返事をしないことが、今夜はひどく重かった。

翌朝、保育所へ向かう道で、娘がポケットから小さな実を一つ取り出した。青みの残る、いびつなリンゴだった。

「これ、とっといたの。くまにあげないやつ」

昨日、もいだ実が四つしかなかった理由を、慎吾はそこで知った。

「どうするの、それ」

「おばあちゃんに見せる」

施設がどこにあるのか、慎吾は知らなかった。坂口さんなら知っているだろう、と思った。思っただけで、足は止まらなかった。霧の向こうで、保育所の門に飾られたカボチャが、欠けた顔のまま笑っていた。

帰り道、庭に回ると、切り株が白く濡れていた。慎吾はしゃがみ込み、指で年輪を数えはじめた。三十を過ぎたあたりで、どこまで数えたのかわからなくなった。もう一度、外側から数え直した。

この物語の元になった占いを読む
制作過程を読む

ニュースと選定

題材は「【ヒグマ速報】保育所のハロウィーンカボチャ食い荒らされる-住宅街にクマの痕跡…庭のリンゴも_警察とハンターの警戒続く<北海道枝幸町>」。 10月25日午前7時ごろ、北海道枝幸町音標の住宅で、庭のリンゴの木の枝が折られ実5個がなくなっているのを住民が見つけ町役場に通報。近くの町立音標保育所でもハロウィーン用に飾っていたカボチャが約3分の1食べられていた。ハンターが歯形を確認し、警察はクマによる食害とみている。現場は山林と住宅地の境界付近でクマの出没が多い地域。人への被害はなし。警察は生ごみや果物を放置しない、不要な外出を控えるよう呼びかけ。 別系統の報道で確認:HBC北海道放送(10/25 16:34)、STVニュース北海道(10/25 16:12、「枝幸警察署が25日発表」と記載)、HTB北海道ニュース(10/25 14:39)がいずれも同内容(リンゴ5個、保育所のカボチャ約3分の1)を報道。警察発表の一次資料そのものはWeb上で見つけられなかった。配信日は10/25(FNN 16:00)で今日であることを確認。

人物

芦原 慎吾(仮名)、39歳、道北の小さな町に移住3年目。在宅で建築CAD図面を描く。看護師の妻と4歳の娘の三人暮らし。借家の庭に前の住人が育てたリンゴの木。 名前:芦原 慎吾(仮名)、39歳、男性。職業:札幌の設計事務所の下請けとして自宅でCAD図面を描くフリーランス。 家庭・生活:妻(41)が町の診療所の看護師として赴任したのを機に、3年前に札幌から道北の小さな町へ。築50年の借家に住み、4歳の娘を毎朝町の保育所へ送る。家事の多くを担う。庭には前の住人(施設に入った高齢女性)が何十年も育てたリンゴの木が一本あり、大家から「できれば残してほしい」と言われている。 過去:札幌の設計事務所で働いていたが、過労で一度体調を崩して退職。以来、人の多い場所が少し苦手。 悩み・葛藤:近くの町で熊が庭のリンゴを食べたニュースを受け、近所の人に木を切るよう勧められる。安全を考えれば切るべきだとわかっているが、娘は毎年の実を楽しみにしている。また妻は町に溶け込んでいるのに、自分は町内会でもうまく話せず、2年後の任期明けには札幌に戻ろうかと内心考えている。 喜び・希望:秋に娘と実をもいでジャムを作ること。夜明けの静かな道を保育所まで歩く時間。 言いにくい本音:木を切ることで「いつでも出ていける身軽さ」を手に入れたい自分がいる。それが娘や妻、木を残した人への裏切りのように感じている。

三枚のカード

  • 過去:恋人(逆位置)
  • 現在:教皇(逆位置)
  • 未来:愚者(逆位置)

この物語は実在人物を描いたものではありません。ニュースは2026年10月25日時点の報道を起点にしており、制度変更を既定事実としていません。