あの冬、野々宮透は眠らなかった。
事務所の電話は鳴りやまず、避難してきた人のための案内文、役所に出す書類、支援団体の募集要項と、頼まれるものは全部引き受けた。訳しながら次の依頼を開き、送信しながら次の文を考えた。誰よりも速く訳せば、誰かが一日早く助かる気がしていた。
春になるころ、自分が何を訳したのか思い出せなくなっていた。机の端に、半分まで訳した炊き出しのちらしが残っていた。続きを訳すはずだった日付は、とうに過ぎていた。
夏、口座の残高を見て、彼はロシア語の産業機械の取扱説明書を引き受けた。ボルトの締め付けトルク、潤滑油の交換周期。そこには誰の名前も、どの町の名前も出てこなかった。それがありがたかった。ラジオは天気予報のあとで消すようになった。
*
十月の夜、透は同じ説明書の続きを訳していた。画面の隅に、一週間前のメッセージが開いたままになっている。
――とおるさん、げんきですか。
ひらがなだけの一行だった。二十年前、台所のテーブルで、十歳の少女に「げ」の濁点を教えたことがある。点を二つ、右上に。彼女は点を大きく書きすぎて、母親に笑われていた。
続きはなかった。どこにいるのかも、家族がどうしているのかも書いていなかった。彼女の祖母が住んでいた町の名前を、透は覚えていない。南のほうの、川の近くの町だった気がする。
消し忘れたラジオが、南部の小さな町で戦闘が一時止まると伝えていた。始まる日が二通り報じられている、とアナウンサーは言った。どちらの日なのか、まだ分からないらしい。
透は返信欄に「元気です」と打ち、消した。「ニュースを見ました」と打ち、それも消した。見ていなかった月日のほうが長かった。
事務所を出ると、雑居ビルの裏で犬が吠えていた。どこの犬なのか、姿は見えない。雲の切れ間から白い光が落ちて、電線と看板の影が道に落ち、どれが何の影なのか区別がつかなかった。彼はコンビニまで歩き、何も買わずに戻った。説明書の次の行は「異音が生じた場合は、直ちに運転を停止すること」だった。そこを訳して、パソコンを閉じた。
*
返信を送ったのは、明け方の四時だった。
――げんきです。ずっと、ことばがみつかりませんでした。
彼女に合わせてひらがなで書いた。送ってから、それが言い訳なのか、本当のことなのか、自分でも分からなかった。
日曜日、透は隣県の実家で父と将棋盤を挟んだ。スマートフォンは盤の横に伏せて置いた。来る途中、二回ひっくり返したが、既読の印はついていなかった。向こうは昼過ぎだろうか。時差を数えようとして、やめた。
金曜の夜には、例の取引先から次の依頼が届いていた。透は返事を保留したまま、ここまで来ていた。
「おまえ、さっきから同じ駒ばかり見てるな」
父が言った。透は銀に伸ばしかけた指を止め、桂馬を跳ねた。悪手だった。父は黙って角を引き、透の陣に穴があいた。
「戻していい?」
「待ったなしだ」
父は茶をすすった。盤の上では、さっきまで攻めていたはずの透の駒が、ことごとく働きを失っていた。どれを動かしても、一手遅れる。
庭の柿の木で、鳥が一羽鳴いて飛び立った。透はスマートフォンに手を伸ばしかけて、引っ込めた。
「長考か」
「うん」
「好きなだけ考えろ。投げるなよ」
父はそう言って、台所へ湯を沸かしに立った。透は盤を見下ろした。負けている局面だった。それでも、まだ指せる手はいくつか残っていた。
伏せたままの画面の下で、何かが一度、短く震えた気がした。透はそれを確かめずに、歩を一つ前へ進めた。