四年間で、陽向がゴールマウスに立った公式戦は二試合しかない。
最後の秋のリーグ戦、正キーパーが足首を痛めた週に、監督が名前を呼んだのは一年生だった。陽向はその夜、相手チームのキッカーの癖をノート三ページにまとめ、一年生の下駄箱に入れた。理由は訊かなかった。訊けば答えが返ってくる。答えが返ってくれば、それを自分のせいにするか、監督のせいにするか、決めなければならない。決めずにおけば、どちらにもせずに済んだ。
内定承諾書に判を押したのも、同じやり方だった気がする。祖母が近所の美容院で「信金さんに決まったの」と話していると母から聞いた翌日、陽向は迷っている顔をやめた。
土曜の夜、録画しておいた試合を、日付が変わってから再生した。遠い国のスタジアムで、日本人のキーパーが首位のチームのシュートを何本も弾いていた。横っ飛びの指先、それから至近距離で詰めてきた相手への飛び出し。陽向は膝の上でクッションを握ったまま、気がつくと声を殺して笑っていた。うれしいのか悔しいのか、自分でも区別がつかなかった。
眠れないまま五時前に家を出た。父が始発のバスに乗務する日で、玄関で鉢合わせした父は何も訊かずに「乗ってくか」とだけ言った。
始発は客が陽向一人だった。川沿いの道は霧で、ヘッドライトの先が白く溶けていた。橋に差しかかるあたりで霧が薄くなり、対岸の河川敷にある少年団のグラウンドが、ゴールの白い枠から先に浮かび上がってきた。二年前の夏、ここで小学三年の子に構えを教えた。初めてボールを抱え込んだとき、その子は泣きそうな顔で陽向を振り返った。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。一年生からだった。〈来週の相手のPK、また見てもらえませんか〉。陽向はすぐには返さなかった。窓の外では霧が、ほどけるというより、ところどころ破れるように退いていく。急いで全部を見ようとすると、まだ白い部分を勝手に何かで埋めてしまいそうだった。
終点で降りるとき、運転席の父が前を向いたまま言った。
「お前、昨日の試合、見てただろ。夜中に笑ってたの、廊下まで聞こえてたぞ」
「……うん」
「そうか」
父はそれ以上何も言わず、折り返しの行き先表示を切り替えた。
昼過ぎ、押し入れの奥から中学の頃の段ボールを出した。ノートを探していたのに、出てきたのは祖母の字で日付が書かれた封筒だった。中には地元紙の切り抜きが一枚。県大会一回戦の小さな記事の隅に、「途中出場の戸塚がPKを止め」とあった。陽向は自分でもその記事の存在を忘れていた。
封筒の裏には、色の違うペンで「ひなた、手が大きい」とだけ書き足してあった。
信金の話を美容院でしていた祖母が、十年近くこれを取っておいた。どちらも祖母の本当なのだろう、と陽向は思った。どちらかを嘘にしなくていい。けれど、自分がどちらかを選べば、もう片方を祖母の手から取り上げることにはなる。
一年生には〈見るよ。ただ来年は見られないかもしれない〉と返した。打ってから、その一文を消すかどうか、しばらく画面を見ていた。消さなかった。
夕食はさんまだった。祖母が骨を外すのに手間取り、妹が手伝っている。父は早番明けの顔で黙ってビールを飲み、母はテレビの音量を一つ下げた。
陽向は箸を置き、膝の上で、何もはめていない両手を一度開いて閉じた。
「ばあちゃん。あのさ、話があるんだけど」
祖母が顔を上げた。妹の手が止まり、さんまの小骨が一本、皿の縁に落ちた。