朝のバスは七時二十分に来る。美穂は五歳の蒼の手を引いて、その十分前には停留所に立った。田んぼの向こうで霧が薄れていくのを、毎朝同じ角度で見ている。
工場の班長には、先月も頭を下げた。保育園の迎えは五時十分で、バスで間に合わせるには四時の便に乗らなければならない。定時までは働けなかった。「また早退か」とは言われなかった。言われないことのほうが、胸の底に重く沈んだ。美穂は黙って作業台の下に膝をつき、落ちたネジを拾った。黙って拾うことなら、十八のときから得意だった。
三年前、車は手放した。ナンバーを外す日、役所の人は終始事務的で、それがありがたかった。夜に蒼が理由もなく泣いて暴れる時期もあった。叱らず、小さな背中に掌を置いたまま、泣き声が自分の呼吸に合ってくるのを待った。待つことなら、それも得意になった。
先週、叔父が水色の軽を庭先に停めて言った。
「乗らんと錆びるで」
差し出された鍵を、美穂は受け取ってしまった。昼休みにスマートフォンを開くと、車のことで何かが変わるらしいと一行だけ流れてきた。開かずに閉じた。
その夜、台所の釘に、鍵を輪の側から逆さに掛けた。明かりを落とす前に見上げると、鍵の影が天井で、まっすぐな向きに伸びていた。
それから数日、美穂は急がなかった。四時の便の窓から、溜池の鷺が毎日同じ杭に立っているのに気づいた。停留所のベンチの落書きを、蒼が指でなぞって数えた。「ここ、きょうも十二こ」。数が合っているのかどうか、美穂には確かめようがなかった。運転手が毎回、帽子のつばに指を当てて蒼に挨拶した。
どこへでも行ける自分が、まだ体のどこかにいる気がした。それを蒼のせいにはしたくなかった。かといって、ないことにもできなかった。美穂は何も決めないまま、夜の台所で鍵を見上げた。
日曜、叔父の庭で、美穂は運転席に座った。決めたわけではなく、ただ座った。物置から出された古いチャイルドシートに蒼を固定し、ベルトを二度引いて確かめる。エンジンは三度目でかかった。
溜池をぐるりと回る道は、一周で三キロほどある。稲刈りを終えた田が両側に開け、軽は遅れ遅れに加速した。蒼が後ろで何か歌っている。窓の外を、停留所の屋根が過ぎた。ちょうど十時の便が来て、運転手が帽子のつばに指を当てた。美穂はハンドルから片手を上げて、小さく返した。
道は輪になっていた。進んだのに、気がつくと叔父の庭の前に戻っている。エンジンを切ると、車体がかすかに鳴りながら冷えていった。
「もういっかい」と蒼が言った。
「今日は、おしまい」
役所に電話するべきかどうか、美穂にはまだ分からなかった。許されるのか、取り上げられるのか。申請書の言葉を、まだ誰からも聞いていなかった。
鍵は釘に戻さず、ポケットに入れた。歩くたびに、小さく鳴った。